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女は歯を食いしばり、振り払うために地を蹴った。汚れたズボンに隠し持ったそれを躊躇いなく握り、またたく間に男の懐へと踏み入る。男が驚く暇すら与えず、勢いよく一閃。
「ぎぃ、ゃあぁぁッッ!」
ぱっと赤がほとばしり、男の濁音まじりの絶叫が夜闇に轟いた。
「は、ちょっと切れた、だけで大袈裟ですね」
こちらは何度も殴られ蹴られて、呼吸すら痛いのに。
挑発するように嘲笑を浮かべれば、控えていた他の男二人がたじろぐ。
たかだか学生の女相手に滑稽だな、と吐き捨てる。強がりだろうが奮い立たせねば、今にも動けなくなりそうだ。
ぐっと血に濡れた折りたたみナイフを握り直す。
まるで手応えはなかった、痕にすら残らないはずだ。今は弱い鼠が、予想外に噛み付いたから混乱しているだけだろう。すぐさまに体制を整えてくるに違いない。
それに比べて、自分の満身創痍が煩わしい。どう足掻こうと、彼らに勝つのは不可能だろう。だからこそ、月音は目が痛くなろうと視線を外さず、凝視する。
体感何時間とも思えるほどの沈黙。
睨み合いの末。
「――っ」
遠くで物音がした。
赤や白と派手なスーツを着る、明らかにカタギではない男たちの目線が一瞬、月音から逸らされる。
一筋の希望よりも淡い隙を見逃さず、身を翻した。全ての力を振り絞り、一心不乱に足を動かした。ぬかるみに足を取られようと、前へ前へと走り出す。
少しでも遠くへ。彼らから逃げねば、勝てない。
「おいっまちやがれ!」
「にげやかったぞ!」
「オイ、なにしてやがるッ捕まえろッ!」
怒号を背に浴びても、確認の余裕はない。
息苦しさで朦朧とするなかで女は脇目も振らず、彼らの追撃から逃れるため走る。
捕まれば死ぬ。死ぬわけにはいかない。
まだ、生きなくてはいけない。
生きて、生きて、誰よりも長く。
それが――それだけが大切なのだ。
敵を排除してでも。手段など選んではいられない。
これから先ずっと――独りで生きていくのだから。
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