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短い黒髪が濡れて、艶やかに靡く様を、泰華は呼吸すら忘れて魅入っていた。言葉通り、全てを奪われたのだ。
あの頼りなさげで無防備な首筋に噛みつきたい。
鈴の声を発する果実の唇を塞ぎたい。
滑らかで美しい髪を梳いて口づけて。全部。
――全部、奪いたい。
「……やっぱり、お前、王子様じゃねぇよ」
姫をさらう悪役だよ。
泰華は瞼をあげた。
顔に触れれば笑みを象っている、彼女は驚くだろう。自分が笑うのは、敵か彼女相手だけだと教えれば。
心に渦巻く欲望が身体を呑み込み、思考を麻痺させる。こぼれた嗤いは狂気にまみれ、店内に響いた。
できた手下は表情ひとつ変えやしない。そこだけは好感が持てたがすぐに、その感情は彼女へと塗り替えられた。
「一応、忠告するけれど。彼女を手に入れて、飽きたらぽいっとかないよな」
「ありえないな」
「……いっそ捨ててくれよ。だるいから」
泰華は自分に執着心とは無縁だと思っていた。昔から周りにあるものが灰色に醜くうつった。一度だけ、自分の中で何かが起きそうだったときも、それも不発に終わってしまった。
彼女だけなのだ。
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