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唯一の持ち物、お守りの役割があったナイフは手元にない。戸棚の引き出しにしまってある、取りに行くのは簡単だ。
しかし再び手にするのを阻むように、泰華の微笑がよぎる。
彼が与えてくれた言葉の数々をお守りがわりに、頭の中で唱え続けた。
今までなら飛び出して、ナイフを握って敵を見定めようと躍起になっただろう。
なのに今は、逃げるように丸くなるだけ。
薔薇とまじった泰華の残り香が月音に絡みつく。
この場所に引き留めて、振り払えない。身体が鉛のごとく重くなって、腕一本動かせなくなった。
無音の部屋。車の走行音も、人の騒々しさも届かない。押しつぶされて息苦しくて、たまらない。
心地よかったはずなのに、何か欠けてしまった部屋はとんでもなく居心地が悪いのだと知った。
心許なさで、おかしくなりそうだった。
欠けた何かは、夜まで戻らない。
不完全な宝箱の中で月音は、膝を抱えて丸くなる。
早く時間が過ぎ去るよう祈るしかできなかった。
「――月音?」
やがて青空は夕日の赤、淀んだ黒へと変わる。
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