王位奪還の王子と精霊に隠れし孤児の姫(上)

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1 辺境の地  アナトリア半島とゾクディアナ高原の間に横たわるプハラ山脈は、またその稜線に雪を抱えていた。季節は3月も終わろうとしている。その麓に広がる羊や馬の放牧地には、幾筋もの小川が澄んだ雪解け水を湛えて流れていた。  小川に沿ってスミレやタンポポ、水仙、スズランなどが咲き乱れて、この季節特有の華やかな景色が広がっていた。  放牧地の外れにある丘に向かって緑の絨毯を突っ切るように道が付いていた。その道を一人の少女が手に籠を下げて歩いている。  その少女は活動しやすそうなドレスに、たくさんのカラフルなシミのあるエプロンを付けて速足で歩いていた。仕立ての良いドレスとよく汚れたエプロンがミスマッチな風貌だった。    馬を追い込んでいる馬丁が目敏くその少女を見つけて頭を下げてきた。少女も慣れた様子で会釈をした。春の風が心地よく少女の首筋を通ってゆく。三つ編みに編んだハニーブラウンの髪のおくれ毛が風で揺れていた。  そのとき、少女の遠く後ろのほうで野の一本道を駆けてくる女性がいた。 「アメリアさまー」 とその女性は叫び声を上げている。アメリア付きのメイドのリリーであった。  少女は残念そうな顔をして立ち止まった。  リリーは全速力で駆けて少女に追いつくと、 「一人で、はぁ、勝手に、はぁ、出歩いてはいけませんと、はぁ、はぁ、言われているではありませんか!」 と小言をなんとか言い切ると、呼吸を整えるため体を折り曲げている。  アメリアと呼ばれた少女は、うんざりした顔で 「なにかあったら転移魔法で帰るから大丈夫」 と言った。  内心、転移魔法を使わなくとも大概の危険は避けられる自信があったが、「小さく可愛いアメリア」という周囲の思いを裏切らないように本当の能力はひけらかさないようにしていた。そしてこの地では、実際の力を使わなくても平穏に暮らしていくことができた。 「それでも、あなた様はまだ11歳の女の子。しっかりお守りするようご主人様から言われております」  リリーは目を吊り上げて怒ったフリをしている。  アメリアは、この忠実で優しいメイドが好きだった。森の奥深く男所帯で育ったアメリアには、「貴族令嬢としての適切な振る舞い」がよく分からない。その足りないところを、辛抱強く教えてくれるのだ。今日のように一人で野に出ることも、きっと帰り道で「貴族令嬢として不適切な行動」として説教されるのだろう。 「今日はどうしても、染料になる花を取りに行きたいの」  アメリアは、わがままなフリをした。時には、身勝手な少女の演技も必要なのである。 「では私や工房の人間がお供しますから、勝手に一人で出掛けるなんてことは2度としないでください」  そう言い終わるや、リリーはアメリアの背後に何かを見て深々とお辞儀をした。アメリアが振り返ると、遠くからから馬が2頭近づいてきている。  前を走るのは、ひときわ大きな黒い馬で体格の良い初老の男性を背に乗せていた。その後ろをついてきているのは、先ほど会釈を返した馬丁のジルだった。 (おじい様に言いつけたわね)  アメリアは内心ジルに毒づいたが、すました顔で初老の男性が近づいてくるのを待った。 「アメリア、今日は良い日和だな。散歩か?」  声が届く位置に馬を止めると、太く大きな声で初老の男性が声をかけてきた。  彼は、ブルーノ・ペリクレス。  先代のペリクレス辺境伯であり、アメリアの養父である現ペリクレス辺境伯の父であった。数年前に家督を長男に譲ると、隠居であることを良い事に領地で馬の世話に精を出していたが、実際は気の良い息子に代わり策略を巡らす現役であった。  戦地で号令を飛ばすことで鍛えられた大きな声が、長閑な牧草地に響いた。 「ごきげんよう、おじい様。染料の材料を採りに行く途中でした」  アメリアは淑女のようにスカートの端を持ってお辞儀をした。    ブルーノは年齢を感じさせない動きで馬から降りると、 「リリーを困らせるな。ジルが慌てて儂を呼びにきた」 とアメリアに近づき諭すように言った。  アメリアは「はい」とも「いいえ」とも言わず、頭を下げた。その様子を、ブルーノは鋭く見つめていた。言いなりにならない、という無言の態度が11歳の少女に似つかわしくなく、その姿から何か読み取れないかつぶさに観察していた。    ブルーノは、アメリアが演技をしているのを見抜いていた。 「それは、今日どうしても必要か?」 「いろいろ試したいのです」 アメリアは、天気の良い日に部屋に籠っているのが嫌でフラッと出てきたとは言えず、後付けであったが抜けだした理由は染料の材料探しで押し通すことにした。嘘は言っていない。 「どこに採りに行くのだ?」 「この道の先の、丘の茂みを探します」 「では、リリーとジルを連れてゆけ。遅くならないうちに帰るんだ。いいな?」  そう言うと、ジルに何か指示を出してから一人で馬に乗って去っていった。  ジルとリリーはブルーノが遠くなるまでお辞儀をしていた。彼らにとって、ブルーノはいまだ主のままだった。  アメリアは(おじい様には下手な演技は通用しないなぁ)と思った。柔和な笑顔で目だけが笑っていないのだ。もう、ブルーノには本当のことを話したほうがいいかなとまで思ってしまう。  アメリア・ペリクレス、11歳。  伯爵令嬢になってまだ1年。この世界での常識になかなか慣れなかった。  アメリアには、生まれたときから明瞭な意識と記憶があった。    その記憶は、平成・令和の日本で橋田美羽として32年間生きて経験したものだった。美羽は小さな商社の会社員であったが、事故で32年の生涯を終えた。気が付くと、どこか地球でない世界に転生していたのだった。  転生していることは生まれて早々に気が付いたが、元に暮らした世界と全く違うと分かったのは、魔法の存在を知ってからだった。 「では、アメリア様。参りましょう」 とリリーに促され、アメリアは物思いから覚めた。   目指した丘に着くとアセビが花をつけていた。アメリアはお目付けが2人もいるので、ブルーノに言ったとおりに染料の材料としてアセビをせっせと切っていった。  アメリアはこの地に来る前は農民のような生活をしていた。そんな彼女にとって、体は動かしているほうが楽だった。部屋でじっとしていると疲れてくるのだ。  前世でも働き詰めの32年間だった。「働かないのが普通」の貴族令嬢の生活など、なかなか受け入れ難かった。  ペリクレス家にきた当初は、アメリアは深窓の令嬢であることを求められたが、無為な時間を過ごすよりはと前世の趣味であった草木染の知識を生かして染料の研究を進め、地元の特産品の羊毛をこれまでにない色彩に染めることに成功した。また、織機の改良にも成功したので今やペリクレス領は繊維業特需で湧いていた。ペリクレス製の布の需要が高まったので供給量を増やすためバリカンも考案した。  全て前世の記憶を使って成し得たことだったが、お陰でペリクレス領は潤い、養父のペリクレス辺境伯は今回の税収に歓喜の声を上げた。  もともとはアメリアが自分の楽しみのために始めたことだったが、結果としてペリクレス家に資産が積み上がり養父と養祖父はアナトリア半島の勢力争いを優位に運べるようになった。それは「恩返し」に繋がり、アメリアの気持ちが少し楽になるのだった。  今やアメリアに深窓の令嬢を求めるものはいなかった。  手の届く範囲のアセビの花を採ったので、自分の背丈よりずっと高い位置のものを背伸びして採ろうとしたとき、背後から長い腕がアセビの枝をアメリアの方へ引き寄せてくれた。杉の葉のような芳しい香りがした。 「あ!」  アメリアは、すぐに背後の人が分かった。 「じじさま!」  アメリアは振り返ると、背後の人に抱き着いた。  ダークブルーの瞳でアメリアを優しく見降ろしていたのは、サジューム・ペリクレスであった。 「相変わらず鮮やかな転移魔法!」  アメリアは突然の会遇にはしゃいで見せた。実際、嬉しかった。久しぶりに昔の「家族」に会えたのだ。張りつめていたものが緩むような心地だった。  彼は、みぞおち辺りにあるアメリアの頭を撫でながら「元気だったかい?」と微笑んだ。  少し離れたところで摘んだ枝を整理していたリリーは、突然現れたサジュームに驚き、その微笑みに(あのサジューム様が…)と絶句した。ペリクレス家の人々とその使用人たちは、サジュームの無表情以外の表情を知らない。  アメリアから「じじさま」と呼ばれたサジュームは、外套のフードから豊かなダークブラウンの髪を覗かせている。少しウェーブのかかった前髪が艶やかな広い額にかかっている。「じじさま」と呼ばれるのにそぐわない壮健な男性がそこに立っていた。  サジュームは、リリーに振り返ると 「それを持ってジルと先に帰ってなさい。私がリアを送るから」 と命じた。 2 美羽とサジューム  アセビの丘を降りて、放牧地の中の一本道をサジュームはアメリアの手を引いて歩いている。サジュームはその心情や体調が外見から分かりにくいのだが、アメリアはちゃんと見分けられる。これまで9年間、一緒に過ごしてきたのだから。  2カ月ぶりのサジュームは、少し疲れているようだった。アメリアは、自分をペリクレス家に置いていってから彼が落ち着いてお茶を飲む時間があったのだろうか、と心配になってしまう。  サジュームは今、アナトリア半島の勢力争いの渦中にいた。  現在のアナトリア半島の混乱は、10年前、アナトリア王国第12代国王のヘンドリックが弟ブライアンに殺されたことに端を発する。ブライアンは、ヘンドリックに連なる王家の人間を全て処刑し、自らが王位を継承できる唯一の人間として国中外に宣言をしたのだった。  しかし、ブライアンの手のものが王宮を襲撃した際、第三王子であるアークを取り逃がし、彼が追手にかからず生き延びたことで情勢は大きく転換しつつあった。  サジュームは、10年前の襲撃の際、アークとともに側付きの近衛騎士だったガイウス・テオドシウスを連れて王領の端にある森に跳んだ。その夜、闇夜に紛れて王領から逃げているときにアメリアと出会った。行商人らしい夫婦が盗賊に襲われた後を通りがかったのだ。そこで茂みに隠れて運良く生きていた女児の赤ん坊がアメリアだった。アメリアという名は、アークが妹姫の名をとって名付けた。  それからアメリアは、サジュームとガイウスに守られ、アークに愛され、9年間森の中で隠れて生きていくことになった。サジュームは養い親であり、魔法の師であり、恩人の一人だった。  サジュームはアメリアの歩く速度に合わせてゆっくり歩いてくれていた。  だれもいない野原では遠くで馬の嘶きが聞こえてくるくらいで、二人の土を踏む音しかしなかった。そうしてしばらく歩いたところで、 「ミウは、変わりありませんか?」 とサジュームが口を開いた。サジュームは、アメリアではなくアメリアの背後を見ていた。 (ああ、始まった…) アメリアは、そう思うと黙って俯いた。  サジュームには、なぜか美羽が見える。現代の日本で言うところの霊感のようなものがあるのか、アメリアの傍に美羽を見ることができる。そして、会話もできるのだった。  サジュームは、アメリアのその年齢に似つかわしくない賢さや能力がこの「ミウ」のためであることを分かっていたが、転生については理解しておらず「ミウ」という精霊がアメリアに憑いているのだと思っている。  サジュームにとって、アメリアは精霊の依り代であり、まだ11歳の幼い子供であった。そして、前世、大人であった美羽の姿をした幻にのみ、心を許し、その心情をさらけ出す。  今でこそ、ペリクレス辺境伯を含む複数の諸侯の後ろ盾を得ているが、9年前の逃亡時はそれこそ世界中が敵になったような状況で、幼い王子を守り抜かねばならないという重責を二十歳そこそこの若者が背負うのは荷が重かった。普段は面にこそ出さなかったが、二人きりになると、抱えきれない不安を「ミウ」に吐露していたのだった。  アメリアも、乳幼児の身体が未熟な時期、生活丸ごとサジュームやガイウスのお世話にならねばならないときには、大人の心情では恥ずかしすぎるので敢えて無邪気なフリをしていた。    また、サジュームがミウに弱音を吐いているのをアメリアが分かっていると知られるのはサジュームも気まずいだろうと思い、サジュームとミウの会話の間は記憶がないフリをしていた。    こうして、大人の事情を理解し知恵を持つ精霊としての「ミウ」と、規格外の能力があるが無邪気な子供である「アメリア」は、別の存在として生きることになったのだった。    しかしながらアメリアには美羽の記憶はあるが、そこに意識の分裂はなく同一の人格だった。それなのにサジュームはアメリアでなくミウを見る。それが彼女は辛かった。  サジュームは、ぼそぼそと勢力争いの苦労をミウに語っている。  現在彼は、あまたのアナトリアの諸侯たちをアーク王子の勢力に取り込むべく、貴族たちと密会し交渉を繰り返していた。転移魔法が使える数少ない魔法使いであるサジュームは、アークの便利な手駒として酷使されていた。 「サジ、お疲れですね」  ミウとしてアメリアが語りかけると、サジュームは微笑んで頭を振った。 「正念場ですね。疲れている場合ではありません」  サジュームが遠くを見つめて言うので、アメリアも俯いたまま胸が熱くなるのだった。  アークを中心としてガイウスとサジュームの3人の願い、ブライアンを討ちアークを新王として立てるという願いは、まさに悲願だった。それを知っているだけに、アメリアはやっと前進し始めた彼らの道のりを応援するだけだった。  様々な思惑があってアメリアはペリクレス家へ来たが、本当なら彼らのそばにいたかった。そして、サジュームの役に立ち、彼から褒めてもらいたかった。それが、サジュームがアメリアを見てくれる唯一の方法だったから。  こうやって、時折サジュームが理由をつけてペリクレス領を訪れるのは、アメリアでなくミウに会うためだと分かっていても、そしてサジュームを癒すのはアメリアでなくミウだと分かっていても、アメリアはサジュームに会えることを心待ちにしていた。 (子供でいる間は、サジュームはこうやって手を繋いでくれる…)  指先の温もりだけを縁に、アメリアはサジュームを感じていた。  そして、サジュームもミウの声の心地よさに縋り、つかの間の安らぎを得て渦中の戻ってゆくのだった。  ペリクレス辺境伯の城壁が見えてきた。門を通り抜け、さらに階段を上がると広い中庭が広がりその奥に堅牢な館があった。  館に入ると、執事のルーベンが寄ってきて 「お帰りなさいませ。大旦那様と若旦那様が執務室でお待ちです」 と早口で言った。 「分かりました。リアに何か飲み物を用意して」 と外套を脱ぎながらサジュームは指示した。 「かしこまりました。アメリア様、どうぞこちらに」  ルーベンが奥で控えていたリリーを見て、アメリアを自室に連れていくように目で促す。アメリアは「では、叔父様、失礼します」と会釈をすると大人しくリリーについていった。  執務室に入ったサジュームは、現在のペリクレス辺境伯であるトニ・ペリクレスの笑顔で迎えられた。  腹違いの兄の人の良さはこの混乱の時期には弱点であるが、そばで控える強面のブルーノがいれば大丈夫だと思えた。この兄の人柄ゆえに、サジュームはアメリアを安心して預けられる。 「遅かったな」  ブルーノがしかめっ面をしている。 「アメリアの歩みに合わせていたんですよ」 「ともに転移魔法の使い手のくせに」  ブルーノの嫌味にサジュームは表情を変えず、軽く会釈をした。 「まぁ座りなさい、サジューム。父上もせっかちは老いの証ですよ」  穏やかにトニが間に入った。 「なんだと!」 とブルーノは口では言っているが、あまり気にしていないようだった。  サジュームが椅子に座り、その手にワイングラスが渡ったところでブルーノが口を開いた。 「どうだ、塩梅は?」 「ロータス侯爵から下級貴族の方々に話をしてもらっていますが、まだあまり良い返事はありません」 「交渉の余地はあるのか?」 「領地の小さなところは戦乱を好みません。いよいよとなれば、どちらかに付くか決めるでしょうが。そうでないうちは、なにかで釣るしかないでしょうね…」  サジュームはワインを口に含むと、大きく息を吐いた。 「金品であれば、少し提供できるかもしれん」  トニが口を挟むと、「それはもっと戦いが具体化してからのことだ」とブルーノが一蹴した。武器や防具を用意するための戦費を捻出するのはどこの領主も頭を悩ませるとことだが、ペリクレス領は現在、繊維業特需とウマイヤ王国との交易路の通行料でかなり潤っていた。 「これも、アメリアのお陰だ。あれはすごいな」  ブルーノが珍しく人を褒めた。 「アメリアは、こちらでご迷惑をおかけしていませんか?」  サジュームが養い親の顔になった。  トニが笑って、 「迷惑なんて、とんでもない。我が領地を豊にする素晴らしい人材だよ」 と言った。  サジュームは、父親と兄からアメリアを褒められてまんざらでもない顔をしている。 「ところで、王子の様子はどうか?落ち着いたか?」とブルーノ。 「少し落ち着かれていますが、まだ『アメリアがいい』とおっしゃることもあります」 とサジュームが答えた。 「まったく困ったものだ。少女への執着などが知られたら、せっかくの完璧な王子像が壊れてしまう」  ブルーノが大ききため息をついた。 「アーク王子は、非凡なまでに聡明でいらっしゃいます。ですが、8歳で家族と家と国を失ったのです。時に情緒が不安定になるのは、致し方ないかと」 とサジュームがアークを擁護した。  アークは森の隠れ家で生活しているとき、夜、アメリアの隣でなければ寝付けない時期があった。成長するにつれ一人で眠れるようになったが、今でも突発的な不眠がおこることがあった。そのときは、護衛のガイウスが寝るまでそばに付いている。 「まぁ、アメリア自身が望むのなら、あと2、3年もすれば輿入れしても問題ないかと」 とトニが言うと、 「とんでもない。早すぎます!」 とサジュームが珍しく語気を強めて反論した。 「アーク王子の伴侶を空席にしておくのも戦略だぞ。それにアメリアは我らの隠し玉だ」 と老獪なブルーノは言った。  トニは肩をすくめて、 「父親としてはアメリアの気持ちに沿った将来を歩ませたいですがね」 と言った。 「アメリアがそう言ったのか?『王子がよい』と?」  ブルーノが訊くと、 「いえ。別れ際の様子を見てそう思っただけです。アメリア一人を置いて、3人がここから出ていった後の彼女の塞ぎようは可哀そうだった」 とトニが答えた。 「それは、『家族』と別れたからだろう」とブルーノ。 「結婚すれば、家族になれますよ」とトニ。 「いい加減にしてください」  サジュームが手でテーブルを叩いて二人の議論を止めた。  ブルーノもトニも驚いて、口を半開きのままサジュームを見た。 「アメリアを利用する考えは止めていただきたい」    無表情であるが、怒っているのが二人には分かった。  ブルーノは、内心、アメリアに執心しているのはサジュームも同じだ、と思ったが口にしなかった。 3 ペリクレスの魔女  アメリアは13歳になっていた。彼女のアイデアで、農作物に豆を導入することで輪作障害が防げるようになり、ペリクレス領内の農地の収量は増加していた。好景気に沸くペリクレス領地は、他の地域からも人が流入し、それを見こんだファストフードのような形態の店舗をアメリアが作ったので領内の街はどんどん活気づいた。  アメリアのアイデアを基とした技術を餌に、ペリクレス家は周辺の諸侯と同盟を進め、親ブライアン派に拮抗する勢力がペリクレス家を中心として築かれていた。  サジュームまますます忙しくなって、もう半年ほどアメリアは会っていない。その寂しさを忘れるかのように、アメリアは、いろんなアイデアを形にすべく仕事に没頭していた。  アメリアの生活だけをフォーカスするなら、それは平穏なものだった。しかし、世情はどんどんきな臭い方向に移り変わっていた。  ペリクレス家の城周辺には、簡易の家が建設され領地内から召集された兵士たちが駐屯するようになった。また続々と武器と防具が集められるようになった。  その様子を眺めると、アメリアも(いよいよかしら…)と不安がよぎる。  心を占めるのはサジューム達の安否であるが、そのころ彼らの動向が全くアメリアの耳に入らなくなっていたので、「便りがないのは良い知らせ」とばかりに自分を安心させていた。  ところが、ある日アメリアが伯爵家の執務室に呼ばれると、トニから「アーク王子が大怪我をした」と聞かされた。  トニによると、アーク王子の怪我は重篤であったが、今、サジュームが掛かりきりで治癒魔法を施しているとのことだった。そして、アメリアにその治癒を手伝ってほしいとの連絡が入ったと言われた。  トニは、サジュームからと思われる手紙を机の上に広げたまま、難しい顔をしている。 (サジが治癒魔法って…)  アメリアは驚いた。  サジュームは治癒魔法を使うことができるが、効果は極めて限定的だったからだ。もしかしたら、無理をして魔法を使い続けているのかもしれない、と思うとアメリアは不安でいてもたってもいられなくなるのだった。  そのとき、執務室のドアがドガっと開いて、ブルーノが入ってきた。 「どうだ?話はできたか?」 「ちょうど今、話したところです」 とトニはアメリアを見ながら答えた。ブルーノもアメリアを見た。 「明日、兵を連れてターレス侯爵領に向かう。どうする?」  ターレス侯爵は領地を隣とするコリントス伯爵と領地境で新規の開墾地の権利について紛争を起こしている。それを治めるため現在、新アナトリア王国国王を名乗るブライアンが裁定のため兵を出した。  しかし、それは建前で、アーク王子をかくまっているターレス侯爵に対して武力で制圧しようとしているのだった。  ターレス侯爵は、ブルーノの朋友であり、早いうちから反現王派として自らの立ち位置を表明していた。その友を助けるため、ブルーノが兵を率いて出陣するのだ。 「一緒に行きます」 「そうか。なら、ダルトンをお前に付ける。兄から離れるな」  ブルーノはそう言うと足早に部屋を出た。明日の出陣まで準備が山のようにあるのだ。  ダルトンはトニの長男である。 「あの、アーク王子はいつ怪我をされたんでしょうか?」 「1週間前だ」 「一週間!なんでもっと早くに連絡をくれなかったんでしょうか?」  アメリアは苦しそうな顔で聞いた。 「サジュームもガイウスも出来るだけお前を巻き込みたくなかったんだろう。致し方なし、という文面だ」  トニは人差し指で手紙を叩いた。 「まぁ、お前はいずれ渦中に戻っていくと思っていた。少し早まったが…」  トニはアメリアに近づくと、 「なぁ、アメリア。お前は、常人にはない才能を持っている。お前のなせる技が一度人びとの目に触れれば、お前はもう普通の少女には戻れないだろう。そして王子のそばに行けば、不本意な評判が流れるかもしれない。だが、他人がどうお前を見ようが、お前は私の自慢の娘だ。大切で可愛い末っ子のアメリアだ。どうか、自分を最優先に生きろ」 と厳しい顔つきとは裏腹の優しい口調で語りかけた。  アメリアは、養父の真意に触れて泣きたいくらい嬉しかった。  アメリアはブルーノ率いるペリクレス家の私兵とともに、2日かけてターレス侯爵領に入った。そこで迎えに来ていたガイウス一行と合流し、アメリアだけブルーノと別れて一足先にターレス侯爵が居住する城へ先に向かうことになった。 「アメリア。息災か!」  3年ぶりのガイウスは、変わらず朗らかで今が戦禍の最中だとは全く思わせなかったが、腕から見える包帯が激しい戦闘だったと思わせる。 「ととさま!」  アメリアは、森の隠れ家でいつもアメリアが飽きるまで高い高いと抱き上げてくれたガイウスに会えて、目頭が熱くなった。    しかし、ガイウス一行は相当急いでいるらしく、再会の抱擁もすぐに切り上げてアメリアを馬に乗せた。その忙しなさに嫌な予感がした。  ターレス城に着いて、侯爵と挨拶を済ますと早々にアメリアはアークの寝室につれていかれた。  やつれた顔のサジュームがベッドの脇から立ち上がった。 「アメリア。よく来てくれた」  アメリアがベッドの脇に駆け寄ると、アークは熱で朦朧している様子だった。  アークは横たわった姿であったが、3年前に別れたころよりまた一回り体格が大きくなったように感じた。プラチナブロンドの髪や端正で優美な顔立ちは幼い頃のそのままであったが、濃い眉毛やがっしりとした顎などに大人への成長が見て取れた。  アメリアは憔悴しているアークの顔の近くに顔を寄せると、 「アシュ。アメリアが来ました」 と小声で言った。  アークは「リア、リア」と手をシーツから出して空を搔いている。アメリアはその手を取って、「ここです。アメリアです」と答えた。アークは頷いて、うーんと呻いた。 「早速、やってみますね」  アメリアはそっとシーツをはいで、アークの傷を確認してから最も傷の深い部分に手をかざし始めた。  サジュームは、椅子に腰かけると「はぁ」と大きく息をはいた。 「じじさまはソファで休んでください」  アメリアは、背後のサジュームの疲労も気になり声をかけた。「ああ」と珍しく素直にサジュームは壁際のソファに行くとドカリと腰を下ろした。  アメリアの施術が進んでいくうちに、アークからうめき声がしなくなって、すやすやとした寝息が聞こえてきた。「ふう」とアメリアは、いったん床に腰をつけてサジュームを振り返ると、彼もまた肘をついて寝ていた。  そのとき廊下を人が数人駆けていく音が聞こえた。  アメリアがそうっと覗いてみると、また別の人が駆けていく。広間の方へ集合しているようだった。  そっと部屋を抜けて、広間の端にいたガイウスを捕まえて何かあったかと訊くと、 「領地境に来ているブライアン軍が、王子の引き渡しを要求している。今すぐ、要求を飲まなければ麦畑を焼くと脅してきた」 と苦々しく答えた。  ターレス領とコリントス領は半島随一の穀倉地帯であるが、反面、農業以外の主要な産業がない。小麦の収益が無くなるということは、ターレス侯爵家自体が立ち行かなくなる。非常に効果的な脅しだが、ターレス領の小麦の収穫が無ければ、飢える人々が確実に増加することが目に見えている。この度、ペリクレス軍が大挙してターレス領に駆けつけたので、もしかしたら敵方は焦っているのかもしれなかった。  この浅慮な交渉の仕方に、アメリアは怒りを覚えた。  今回のペリクレス軍の出陣には、アメリアがペリクレス領で出会ったたくさんの優しく善良な領民たちが参加している。リリーの息子も参加しており、初陣であった。 「そのブライアン軍のいる領地境はどこ?」  ガイウスに訊くと、彼は言いよどむのでアメリアは踵を返して広間から飛び出した。    城の入口に立っている衛兵に今敵が進軍している場所を聞くと、アメリアは即座に転移した。小麦を人質にすでにペリクレス兵が傷つけられているかもと思うと、アメリアは迷うことなくその地に跳んだ。残された衛兵は、呆気にとられるだけだった。  アメリアは、小麦畑の中を横切る道に立っていた。  なだらかな起伏のある土地に一面、小麦が穂を揺らしている。ブライアン軍はすでに一部の小麦を踏み荒らして陣を張っている。そこから少し離れた小高い丘の林にペリクレス軍とターレス軍が控えていた。    アメリアは、ブライアン軍が次々と松明に火を移していく様子を確認すると、ゆっくりブライアン軍に近づいていった。背後のペリクレス軍がアメリアの存在に気が付いたのか、騒がしくなっている。  ブライアン軍のほうも、少女が一人前方を歩いてきているので先鋒の騎士が馬上から大声を張り上げた。 「どこの村の娘か。ここにはむやみに近づいてはならん!」  その騎士の背後で、松明が次々と増えていく。炎がブライアン軍の輪郭を描きつつあった。  アメリアは、一瞬だけペリクレス領での忙しくも平穏な日常を思い返すと、両手を前方にかざし、低い声で詠唱するとその手を一気に左右に振り切った。  その瞬間、ブライアン軍の頭上からスコールのように水が降り注ぎ、一瞬で松明を消し去った。水の落下が止んだと思った瞬間、彼らは急激に冷気に襲われ、みるみる甲冑が凍り付いていった。  水と氷で馬も兵士もパニックになり、ブライアン軍は総崩れで撤退していった。  それをぼんやりとアメリアが眺めていると、後ろから蹄の音が近づいてきた。振り返ると、ブルーノが数人の騎士や兵士とともに馬でこちらにかけてくるのが見えた。  この日を境に、アメリアはコリントス領に出張ってきているブライアン軍を追い払うため、ブルーノやサジュームとともに幾度か出陣し、やがて彼女は「ペリクレスの魔女」と呼ばれるようになった。 4 王都奪還  ペリクレス辺境伯とターレス侯爵との混成軍がコリントス領からブライアン軍を追い出たことをきっかけに、アークを擁立する勢力は一気に増えていった。それまで様子見をしていた弱小の貴族たちも、こぞってアークを支持する側に回ったのだ。  アナトリア半島の領主たちのほとんどは、正当な王家の血統はブライアンしかいないという理由で、暫定的にブライアンを半島の長と認めていた。  その暴力的な王位継承方法に納得できない諸侯は多かったが、プハラ山脈を越えた先にある強国ウマイヤとの対立を乗り越えるためには、国が割れるわけにはいかなかった。  ところがそれから数年経って、ペリクレス辺境伯によってウマイヤと和平協定が結ばれたころ、情勢は少しずつ動いていった。  第三王子が生きているという噂がまことしやかに流れるようになった。その成長したお姿は、賢王とうたわれた若き頃のイシュトバン王と生き写しとまで言われた。この頃、諸侯たちはブライアンの政治の采配に不平等を感じていたためその忠誠は容易に揺らいだ。畳かけるように第三王子の一行と会ったと証言する諸侯が次々と現れ、反ブライアン勢力が少しずつ形成されるようになったのだ。その反ブライアン勢力の中心は、ペリクレス辺境伯であった。  それでも、ブライアンとその背後にあるガラティア国軍の武力を恐れて、なかなか公に意を示さない貴族たちも多かったが、ターレス‐コリントス戦での反ブライアン勢力の圧勝を見て、ブライアンは貴族たちから見限られはじめた。    ここにおいて数年続いた勢力の均衡は崩れ、アナトリア半島はプハラ山脈側からじわじわとアークの勢力圏内になっていった。  そして現在、ブライアンの勢力圏は、王都を含む王領とそれに隣接して海岸線をもつブライアン領(旧王弟領)を残すのみとなった。  そのころ、アークは拠点を王領と隣接するアクィナス公爵領に移していた。  アクィナス公爵の伯母がアークの祖母、アンジェリーナ・アナトリアであり、第12代国王ヘンドリックとその弟ブライアンの実母であった。  アンジェリーナを保護してきたアクィナス公爵は、表では中立を表明していたが早いうちからブルーノと通じていた。王都を落とす今、反ブライアンの先鋒として名乗りを上げ、アーク一行を受け入れたのだった。  このとき、アメリア15歳、アークは22歳だった。  アークは2年前、アメリアと再会してからというものアメリアをそばから離さなかった。昼間の戦地でも夜の寝所でも構わずそばにアメリアを呼んだ。  この日もアークは、夕食後の軽い打ち合わせの後アメリアを呼びに来た。アメリアはそういった会議には出席しない。アメリアはサジュームの助手として現場に行き、兵士の治癒や軽い戦闘などその場の指示に従って働いていた。アークが会議に出ているときだけがアメリアのつかの間の休息だった。  アークは、アメリアを見るなりその手をとり、 「リアを独り占めできるのは、夜だけだな」 と言った。治癒ができる彼女は、日中引く手あまたである。 「アシュはお忙しいですから、休めるときに休んでください」  アメリアはアークを椅子に腰掛けさせると、さりげなくアークの手を外して、飲み物を用意した。  アメリアは、本当なら「アーク殿下」と呼ぶのが相応しいと分かっていたが、アークたっての希望で私室では「アシュ」と呼んでいる。これは、森の隠れ家での呼び方だった。ちなみに、ガイウスが「ととさま」でサジュームは「じじさま」だった。  お酒や果実水などを飲ませて、他愛もない話をしてアークをリラックスさせると、ベッドに連れて行き、またそこで他愛もない話をして彼の眠りを待つ。時には、本を読んで聞かせたり子守歌を歌ったり。そして、アークが眠るとそっとその場から離れていくのだった。  アメリアにしてみれば、アークは手のかかる弟のようなものだった。  実際、前世では早世した母に代わって年の離れた弟と妹を育てたのだ。アークに子犬のような目で「リア、そばに」と懇願されると、どうしても無下にはできないのだった。アメリアは精神年齢だけならもうすぐ50歳なのである。アークのことをかわいいと思ってしまうのも仕方なかった。  そして、青年アークの眼差しから自分のことを女性として見ているであろう、と分かっていたが、「妹アメリア」の立ち位置を崩すことはなかった。アメリアは、もうずっと前から男性といえばサジュームだけなのだ。サジュームがけしてアメリアを女性として見ないだろうと分かっていても、愛さずにはいられなかった。赤ん坊のアメリアに見せた素の優しさやミウに見せる弱さなど「私だけのサジューム」として、アメリアは胸に秘めて想っていた。  このような不毛な恋に囚われている自分を顧みると、(2度目の人生、もっと上手くやればいいのに)と思うのだがそう上手くいかないのも人生なのだろうと半ば諦めていた。 アメリアは手のひら以外の部分がアークと接触しないように絶えず気を配っていた。アークがアメリアに触れたその手をアメリアが優しく握って元の位置に返したり、アークが身を近づけた分だけ自分の身を引いたり。その躱し方をリリーはそばで見ていたが、(本当にこの方は15歳なの?)と思うほど、アメリアの振る舞いは大人びていて巧妙だった。  このようにアメリアが一線を越えないよう注意を払っていても、人の口に戸は立てられなかった。 「どうにかなりませんか?」  サジュームがガイウスに相談したことがあった。政治的な配慮もあったが、なによりアメリアが「お手付き」と陰口を叩かれ、「庶民出のペリクレス家の駒」と認知されつつあることが不本意で苦々しい思いだった。  ガイウスも同じ気持ちだった。森の隠れ家で娘のように育て、彼女の愛らしさと知恵に幾度も救われたのだ。ガイウスにとっても、アメリアの素晴らしさを貶める噂に苦しい思いをしていたが、それよりもアークのことを思うと今のアークの振る舞いをどこまで制限してよいのか、悩ましいところだった。  5年前、アークはアメリアと引き離されて不眠になってしまった。  なかなか寝付けない上に、眠れてもちょっとしたことで目が覚めてしまうのだ。その挙句が2年前の戦闘中の不注意での怪我だった。そして今は、王都奪還の作戦中だった。この大事なときに、アークの体調を狂わすようなことはしたくなかった。  しかし、サジュームは納得しなかった。  昼は戦地で夜はアークのそばで、アメリアは今やこの地で最も働く人間になっているのだ。彼女の疲労が色濃くなってきているのを、サジュームは気が付いていた。 「アメリアを戦線から外し、ペリクレス領に戻そうと思う」  王都侵攻の作戦会議中、サジュームはそう宣言した。アクィナス領に反ブライアンの諸侯の軍が集結し、軍事力も十分、半島に散り散りになったかつての王宮魔法使いたちも集まってきていた。アメリアがいなくても戦力は十分と考えてのことだった。  その場で知らなかったのはアークだけだった。  サジュームの根回しにより、アークは諾と言うしかなかった。彼も私事の都合を主張できない立場は良く理解していた。そして今、悲願達成が見えてきたのである。  アークも王子としての矜持を示した。  会議が終ってすぐにサジュームはアメリアに会いに行った。 「お嬢様はお休み中です」 と対応に出たリリーが答えた。部屋の奥から「入ってもらって」と声がした。アメリアだった。  サジュームが部屋に入ると、中はカーテンを閉め切っていて薄暗かった。ベッドに着替えないまま横になっているアメリアがいた。慢性的な寝不足のため、会議のたびに仮眠をとっているのだ。 「席を外してくれないか。リリー」とサジューム。  戸惑うリリーにアメリアが「そうしてちょうだい」と言うので、リリーは仕方なく室外に出た。 「調子はどうだい?アメリア」  優しい声でサジュームが訊いてきた。それだけでアメリアは嬉しくなって、「大丈夫です」と笑顔になるのだった。 「先ほどの会議で、あなたをペリクレス領に戻すことになった」 とサジュームが言うので、アメリアは落胆した気持ちを表に出さないよう「はい」とだけ答えた。 「戻る前に少し時間をくれないか?」  サジュームはそう言うと、アメリアをさっと抱きかかえた。次の瞬間、もうそこには二人の姿はなく、サジュームはアメリアを連れて別の場所へと転移したのだった。  アメリアが目を開けると、そこは森の隠れ家だった。  あばら家、と言ってもいいくらいの粗末な家だったが、4人で力を合わせて作った最高の我が家だった。  「アメリア、すまないがミウと話がしたい」 とサジュームが湖畔に向けてアメリアの手を引いた。 (やっぱり…)  アメリアは求められているのは自分ではないと悟り、俯いてサジュームに従った。  サジュームは湖畔に横たわっている大きな木の幹にアメリアを座らせて、その横に自分も座った。みしっと音がして、時の経過を感じさせた。ここはかつて、アメリアがアークの寝た後抜け出してよく座っていた場所だった。アメリアが座っていると、大抵サジュームが気付いてそばに座ってくれた。二人で見た満天の星空の美しさはアメリアの心の支えであった。 「ミウ、会いたかった」  アメリアは膝に身を預け、意識のないフリをする。サジュームの甘えたような声に、今、この場にアメリアはいないも同然だった。  アメリアは出来るだけ身を小さくなるように縮ませて、この時が過ぎるのを待った。サジュームが満足すればそれで良いと思った。  アメリアの献身をよそに、サジュームはこれからのことをぽつぽつと話し始めた。  現在、 王都に駐在するブライアン軍の一部が投降を始めている。それの経過を見て、あと数日すれば王都に攻め入ることになるだろうと。そして、戦力から言って王都は奪還される見込みが強く、奪還されたあかつきには王宮・王都の整備や組織体制を一から作らなければいけないだろうから、しばらくは会えないだろうと語った。 「アーク王子の即位とその支配が確固たるものになるまで、私は動けないでしょう」  本当は勝利を目前にして嬉しい気持ちにならねばならないのに、サジュームは残念そうに言った。 「こうやって、いつまであなたと会えるのでしょう。アークは、あなたを妻に望んでいる」  サジュームが絞り出すように言った。  アメリアは、恐れていたことになったと思った。 アークは愛おしい存在だが、弟としてしか見ていない。当然伴侶になる気は全くなかったし、アメリアの出自がアークにふさわしくないという噂のこともアメリアは内心大歓迎で眺めていた。ブルーノが強く反対しているというのも安心材料だったが、サジュームがそう危惧しているということは、もしかしたら抗えない未来かもしれない。 (それだけは嫌だ…)  アメリアは膝の上の手を握りしめた。 「アークの妻の人選は、アークの王位継承が認められればすぐにでも始められるでしょう」  サジュームはため息まじりに言った。  そして、少し声を張って、 「リア。聞こえますか?」 とアメリア自身に呼びかけてきた。サジュームがミウとの会遇の最中にアメリアと話をするときのいつもの呼びかけだった。 「…ハイ。聞こえます」  アメリアは今気が付いた、とばかりに身を起こした。 「アメリアの気持ちが知りたい。アークを伴侶としたいですか?」  サジュームは事務的な口調で聞いてきた。  アメリアは頭を振って、「いいえ」と答えた。サジュームは「分かりました」とだけ答えて、湖面を見つめている。 (それ以上の気持ちは訊いてくれないのね…)  アメリアは、言えない気持ちを抱えて一緒に湖を眺めていた。そして、湖面を見つめながら、アメリアは、周囲の人からかけられる声を思い出していた。 「来年になったら、成人ですね」  この世界では、16歳が成人年齢なのである。  16歳を迎えたとき、アメリアはこの世界で生きる上での何らかの決心をしなくてはならなくなるだろうという予感を感じていた。
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