花盗人

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 あの方が初めてこの店へいらしたのは、春の終わりの嵐の昼過ぎでございました。  店先へ人影が差し、カウンターの中よりお待ちしておりますのに、一向に開かぬ扉を不審に思い内より押し開けたとたん、強風で大きくあおられた私の栗毛越しに、あの方の漆黒の双眸が瞬かれた時のことは、昨日のように覚えております。  あれから10年、あの方――この国の参謀筆頭に上り詰められましたアラン・フォン・ドォーエ様は、ひと月ぶりにこの店の定位置にお座りになり、いつものカップからいつものお茶をお飲みになり、ほう、と息をつかれました。いつものように、代筆屋の私の手元を食い入るようにご覧になられます。  漆黒の双眸、漆黒の艶やかな髪。内面をそのまま表したような端正で抑制のきいたお顔立ち。よくよく見ればかなりの美丈夫でいらっしゃいますが、いつも飄々と感情の起伏も読み取れないがゆえに、きらきらしいご同輩の陰に隠れられ、王宮でも市井でもちらとも若い淑女様方の話題にものぼられない方。あの魔窟といわれる王宮で、ここまで影に徹される手腕はある意味特筆に値するのではないかと、わたくしなどはおののく思いがございます。  というのも、わたくしなどが拝見します限り、この方はなかなかに筋金入りのお笑いマニアなのでございます。それも日常に笑いを求める、というシュール系と申しますか。貴族社会の頂点を極めるどろどろの宮廷のあれこれは、面白くて仕方ないのでございましょう。よくもまあ、表情筋の一つも動かさず腹の中で爆笑することがおできになると、常々感心いたします。  あの方はそのあれこれ――「ネタ」というものでございます――をこのしがない場末のカフェへお持ち込みになられては、道化師もかくやという勢いで面白おかしく語りつくしては素面のままお帰りになるのです。  わたくしの身分ではかなうこともございませんが、いつか宮廷の中で、お顔の筋肉を殺しながらしなやかに礼を取られる『鉄面皮のアレン参謀』を拝見することが、わたくしの生涯の夢なのでございます。  「それは褒めているのか、けなしているのか、あるいはただおちょくっているのかな」  あの方の双眸が眇められました。ぞくっとするほどの妖しい色気が立ち昇ります。絶対に、使う場所を間違えておられます。 *  僕が初めてエダの店に入ったのは、春の嵐の日のことだった。彼女は知らないと思うが、僕はそれまで2度ほど、その店の軒先まで訪ねたことがある。でも――誰に言ってもまあ信じてもらえないと思うが、勇気がなくてその店に入ることができなかった。3度目で店に足を踏み入れることができたのは、その日がざあざあ降りの大嵐で、軒先の人影を彼女が捨て置けずに引き入れてくれたからだった。まあ、みっともない出会いだったといって差し支えないだろう。  当時、若輩者とはいえこの国でもまあまあの位置にいた僕が、場末の喫茶店兼代筆屋の看板を前にもじもじしていたことには理由がある。ありていに言えば、僕は彼女のファンだった。……誤解しないでほしい、僕が入れあげていたのは彼女の「文字」だ。 *  初めてアラン様から、わたくしの副業についてのお話が出た時には、驚きのあまりしばらく息がつけませんでした。わたくしの秘め事――花文字について、ここまで詳細に――ネチネチとお尋ねになられた方は初めてでございました。わたくしはこのまま国外追放になるのではないか、もしかしたら監獄に送られて火責め水責めに……とおののいたものでございます。  恐怖のあまり顔も上げられないわたくしに向かい、齢16のお坊ちゃまはまばゆい笑顔で無邪気におっしゃいました。君の文字は至宝だ、一行でもよいから毎月文をくれないだろうか、と。  この国の生粋の貴族であられますアラン様が、下々のまじないの花文字をご存じないのはある意味当然であったのかもしれません。たまたま向こう見ずの下町の娘が、わたくしに頼んだ花文字で、アラン様へ投げ文をし――文字マニアのアラン様が文面そっちのけでその文字に魅了されたと、かの方は信じておられます。ただわたくしには、アラン様がわたくしの文字に格別の思い入れを持たれた理由がわかっておりました。わたくしは、まじないであるべき花文字にほんの、ほんの少し自分の魔力を混ぜ込んで評判を作り……日銭を稼いでいたのでございます。14で親を亡くした小娘が生き延びるための、苦肉の策でございました。  この国で免許状を持たぬものが魔術を使うことはご法度。死罪に値いたします。わたくしは、アラン様に10年懇願されても、「本物の」花文字でのお手紙を、一文字たりとも書くことはできませんでした。  それでも、あの方はこの店に通ってこられました。週に2日のことも、2月も開くこともございましたが、いつもあの妖しくわたくしを貫く漆黒の双眸と、笑い転げずにはいられない「魔窟」のお話を携えて。 *  彼女の筆跡()が稀有のものであるのは、一瞥して分かった。僕の寝所の近くにどうにかして投げ入れられていた上質とは言えない紙のその文を、いつもの癖で初めから文字だけ丹念に見始めた僕は、初めの一文字で背筋にぞくりとおぞけが走ったのを今でも鮮明に覚えている。  花文字、というものを知らなかったわけじゃない。ほんの小さなころから書物だけが唯一の拠り所だった僕には、ずっと文字は特別なものだった。かなり奇特な趣味であることは認める。しかし、王宮にはかつて僕と同じ嗜好――文字フェチ――であった先達たちの書物がまあまああった訳で、どんな分野にも同志はいる。  文字というのは、人を表す。小さな時分から美しい文字を書くよう教育される貴族の文字にも、生活の手段として必然的に習得される庶民の癖のある文字にも、隠しようもなく人の本質が現れると僕は信じている。  簡単にいえば、僕は彼女の文字に一撃で落ちてしまった。  彼女の文字は、代筆屋という文字を生業にしている人々特有の、硬質な美しさがあった。そこに花文字の、止めや払いの細かな技法が加わると、えもいえぬ色気が先達の洒落心ここに極まれりという風情で……おおっと、オタク話はこの辺で。彼女はそこに混ぜ込まれた魔力が僕をおかしくした(笑)と信じているようだけれど、僕も腐っても貴族なので、幼少より魔力除けを節目毎に受けていて、そんなものに惑わされることはさすがにない。  16で初めて彼女の文字を目にしたあの日から、僕は彼女の筆跡()に恋い焦がれている。あれ以来、彼女から本当の文字は一文字ももらえてはいないのだけれど。 * 「エダ、覚えている?あの日もこんなざあざあ降りだったね」  彼女の筆が最後の文字を書き終えたのを見届けてから、僕は注意深く声をかける。 「アラン様が初めてお越しになった日のことですか?」  笑みを含んだ声で彼女は答える。書き物の邪魔にならないよう、きっちりと結わえられた栗毛がなびき彼女が振り向く。  僕は彼女の、いつも短く切りそろえられて色の塗られることのない指先が好きだ。その指先がかきあげるおくれ毛も、柔らかく弧をかく眉も、その下で穏やかに輝く焦げ茶の双眸も。  僕はもう一度注意深く話しかける。相手に情報を与えたくない時は、上機嫌に、簡潔に。 「僕はしばらく都を留守にするよ。ここにまた来られるとしたら、数年後か、もう少し先だろう。元気でいてくれ。君も、……君の文字も、幸多からんことを」  エダの双眸が見開かれる。僕は得意の鉄面皮を披露しようとして、もろくも失敗した。  ふにゃっと情けない笑顔を残して、ぼくは店を後にする。はじめも終わりも、まあなさけなかったな。  残念ながら抜擢されてしまった「魔王」との死地に赴く僕の胸には、彼女の言葉ではないけれど、彼女の花文字でつづられたあの日の手紙が入っている。だからきっと、もしかしたら、生きて帰れるかもしれない。そうでないとしても、この文字のそばで死ねるとしたら、まあ、悪くはないのかな。  僕の脳裏には、まだ先ほどまで見つめていた、彼女の桜色の指先が紡ぐ文字が残っている。 **  今年も、柔らかい若葉が山々を彩る季節がやってまいりました。喫茶店兼代筆屋の看板を軒先にぶら下げ、鼻孔をつく新芽の香りに、私はわけもなく深い吐息をつきます。  カウンターに戻ったところで、店の軒先に人影が立ちました。お早いお客様。今日は幸先の良い滑り出しです。 「エダ」  忘れようもない上機嫌なお声に、私の思考は止まりました。 「今日はいい天気だね」  固まって声も出せないでいるわたくしの前に、漆黒の双眸が近づいてこられます。  5年ぶりの端正なお顔立ちがぐにゃぐにゃに歪んで、自分はどうやら泣いているようだとぼんやりと考えておりますと、あの人ははじめて、カウンターを跳ね上げてわたくしのかたわらにお越しになりました。 「エダ」  16のころから存じ上げているその方の、胸が意外にも広くがっしりとしていることに、私はかすかに驚きながら抱きすくめられておりました。 *  僕は生まれた時から貴族で、望めば大抵のものは手に入ったし、ひもじい思いも痛い思いもほとんどしたことはない。そのかわりに、僕の力が必要とされる時には、人々のために命を賭してもその力を使う。そういう巡りあわせだ。  だから魔王との闘いの道行きも(言葉の響きはベタ極まれりという感じでとても笑えたが、実態は割と笑い事じゃなかった)まあ仕方ないと思っていた。でも、出立の朝に、なぜか見送りの群衆の中にエダが立っていた時には正直、行きたくねえ、と思った。エダは泣きもせず、丸めた紙を投げてよこした。そんなもの届くかよ、と思ったが、隣の魔導士が涼しい顔で僕の手元まで風の力で紙玉を送ってよこした。  この魔導士は本当に食えないいたずら好きだったから、まあ気まぐれかと思ったが。  エダが本気で書いた文字はやばかった。あの紙玉の文字で、よくは覚えていないが、たぶん僕ら一行の内二人は助かったのだと思う。  このことは、これから誰かが知ることはない。生きて帰れた者は少なかったし、皆沈黙の価値を知っている者たちだから。  初めて彼女の店に向かう時から、彼女の本当の文字がもらえたら、僕はそれを支えに生きていこうと決めていた。僕にも世俗のしがらみがあり、彼女をそれに巻き込むことはできない。  でも、彼女の本気の文字は僕を打ちのめした。  僕は、足掛け15年目の春、またあのドアの前に立つ。花を盗むために。
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