残酷な返事

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残酷な返事

 夜が明けて、朝食をとって、登校する。  十数年の人生のなか、こんなに学校へ行きたくない日は初めてだ。いっそ仮病を使って休んでしまいたかったけれど、そんなことをしたところで、どうにもならない。  教室に入り、柿崎くんがまだ来ていないと知ってホッとする。でも、顔を合わせるのがすこし先延ばしになっただけだ。  第一、会う機会がなくても、私のしたことに変わりはない。  せめて謝罪できたらよかったのに。だがそれは自己満足にすぎない。彼の気持ちをさらに踏みにじる。  席に着いて十分ほどたったとき、男子同士の挨拶から、柿崎くんが現れたと知る。聞き耳を立てると、試験のことを話していた。  私はこわごわ、そちらに視線を向ける。  とたんに、彼と思いきり目が合ってしまった。思わず硬直する私に対し、相手はいつもどおり柔らかく笑いかける。  私はズキッと走る胸の痛みに耐えられず、パッと顔を背けた。  彼がこちらを見ているような気がする。いたたまれなくて、この場から逃げ出してしまいたい。  見抜いてくれたらいいのに。私がどんなひどい人間かということを……。  やがてチャイムが鳴り、担任がホームルームを行って、そのあと一時間目の授業を受ける。いちばん得意な数学だが、教科書に書いてあることや先生の説明がよく分からず、呆然とするばかりだった。  その日の授業がすべて終わる。永遠のように長かった気もするし、心ここにあらずで一瞬だった気もする。  なにもかも別次元の出来事みたいだ。  教室の掃除当番なので、数人の生徒と掃き掃除などを行った。  ほかのクラスメイトはみんな出て行き、柿崎くんもいない。それでも、つねに誰かから責められているようだ。  教室の後ろに寄せた机と椅子を戻して、掃除は終了した。当番の面々がカバンを手に去っていく。私もカバンを抱えたものの、足が動かなかった。  斜め後ろを見やる。柿崎くんの席だ。  これからも委員の仕事がある。どう接したらいいんだろう。  できれば嫌いになってほしい。真実を話せば、さすがの彼もそうするかもしれない。でも、私の仕打ちを聞いたら相手は哀しむだろう。  どうすれいいのか分からない。真相を打ち明けるべき? それとも黙っておくべき?  柿崎くんのことを疑わず、まっすぐ向き合えたらよかったのに。もしかしたら、彼の望みが叶ったかもしれないのに。  そんな想像、現実逃避でしかない。私にできることは、なにひとつない――。  相手の席から顔を背け、出入り口に足を向けた、そのとき。  もうひとつのドアが静かに開く。  目を向けると、そこに立っていたのは柿崎くんだった。  私は全身が強張るのを感じた。  彼と相対することに耐えられない。逃げようと、クルッと背を向ける。足がもつれそうになる。教壇のそばまで行ったところで、相手が声を上げた。 「若狭さん、話があるんだ」  ビクッとして足を止める。前に進めない。振り向くこともできない。  なにも聞きたくないの。お願い、もう私に構わないで。  ひりつくような沈黙のあと、彼が穏やかに懇願した。 「すぐ済むから聞いてほしい」  言わないで。私はあなたの思っているような人間じゃない。でも、ひとつも口にできなかった。  柿崎くんがゆっくり近づき、あと数歩の距離で立ち止まった。 「僕は……君のことが好きなんだ」  私の中にあるガラス玉が床に落ちて、粉々に砕け散った気がした。  カバンを持つ手が震える。なにもかもぶちまけてしまいたい。でも、勇気を出して告白してくれた相手に、どう伝えられるというのだろう。  彼が付け加える。 「本気だよ。信じてほしい」  その言葉に泣きたくなる。  ごめんなさい。あなたはずっと誠実に接してくれたのに、私は……。  すこしの静寂がすぎ、彼は告げた。 「僕と付き合ってほしい」  ああ、言われてしまった。  そんなまぶしい気持ちを向けてもらえる人間じゃないのに。私は取り返しのつかないことをした。  償いの方法を考えたけれど、どうしようもないのだ。いくらあがいたって、彼の気持ちを踏みにじる。  あなたのことを好きになって、笑顔で受け入れられればよかった。そんな私はいない。  ひどい人間がここにいる。ただそれだけだ。  返事を、しないと。  イエスと答えれば、さぞかし喜んでもらえただろう。でも、これ以上は嘘を重ねたくない。あなたは、私になんて想いを寄せていてはいけない。  素敵な女子はたくさんいる。互いを大切にする相手と出会える。だから、私のことなんてさっさと過去にしてほしい。  あなたは幸せになれる。それを一日でも早く、つかんで。  私ができることは、これだけだ。  振り返って、緊張した顔でこちらを見つめる相手と目を合わせた。 「ごめんなさい。あなたのこと、そういうふうには見れない」 「……そっか」  沈んだ表情になる彼に対し、私は唇を噛んだ――。  柿崎くんが教室から出て行ってから、どれくらいの時間がたったのか。しゃがみ込んでいた私は、よろめきながら立ち上がり、窓の外の青空を眺めた。  なにもかも、なかったことにしてしたい。でも、時間は巻き戻らない。彼の向けてくれた優しさがつぎつぎ頭に浮かんで、胸が苦しくなった。  ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。  この気持ちは言葉にならない。  柿崎くんが立ち直ってくれるよう祈ることさえ、偽善にすぎない。  私は、ずるい自分を呆然と見つめた。
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