*12 不機嫌な朝と海ごっこ

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*12 不機嫌な朝と海ごっこ

「ほら、ハルぅ、早く食べちゃいなよ。プール行くんじゃないの?」 「……いらないの。プールも行かないの」 「ええ~? 昨日あんなに楽しみにしてたじゃん~」 「……プールじゃなくて、海、行くっていってた……」 「あー……そうなんだけどさぁ……」  いつもはいい子のテンプレみたいなハルが、今日はめちゃくちゃ機嫌が悪い。朝食にと俺が焼いたパンケーキをひとかじりしただけで、後はじっとうつむいたままだ。  もうさっきから、こういうこう着状態が三十分は続いている。  一ミリも状況が好転する気配がなくて、俺はテーブルに頬杖ついたまま溜息も出なかった。  もともとはなんの話からだったか忘れたけど、ハルは今まで一度も海で泳いだことも、それどころかちゃんと見たこともないって言いだしたのがきっかけだった。 「そんなら俺が車出してあげるからさ、梶井も誘って四人で海までデートしようよ」 「でぇと? でぇとってなぁに?」 「大好きな人と色んなとこに一緒に出掛けることだよ」 「ハル、潤くんとデートするぅ! ねえ、カジイ、潤くん、行こうよぉ」 「いいね、行こう行こう」 「しょうがねぇな、決まりだな」  だから今日はバイトが休みな俺と、二階の賢さんと聡太さんとでハルを連れて海まで行こうという約束を先週あたりにしたんだ。  ちょうど賢さんも聡太さんも休みになっている日があって、その日に行こうって決めた。  聡太さんはめちゃくちゃ小さくてぼろいけれど一応車を持ってはいるから、それに乗せてもらうことになった。  ハルは、ここに来てから初めてのお出掛けらしいおでかけの予定にすごくはしゃいでしまって、ダイニングのカレンダーに赤いペンで大きな丸を何重も書いて印をつけていたほどだ。  指折り数えて、毎日カウントダウンしていたのに――今朝になって、事態は急転してしまう。 「……ほんっとに、ごめん……急にバイトのヘルプ入ってくれって言われちゃって……」 「俺も、いまからライブのトラなんだわ……すまん……」  朝、ハルが起きて、俺と一〇一号室から管理人室に向かっている時、ちょうど二階のふたりが降りてきて、ものすごく申し訳なさそうな顔をして、海に行けなくなった事情を話した。  ライブのトラ、というのは、いわゆる代役という業界用語なんだそうで、急に頼まれるってことはそれなりに演奏の腕を買われていることにもなるとかで、なかなか断れないんだと言う。  聡太さんも、少しでも生活費とかの足しになるのならということで、バイトのヘルプを引き受けざるを得ない。  ふたりともそれぞれのっぴきならない理由で海行きをキャンセルして、それぞれの仕事に向かって行き、その背中を、俺とハルはただ見送るしかなかった。 「……海、行けない?」  寝ぼけているのと、思ってもいなかった事態に呆然としているハルがそう呟いたので、俺は慌てて、「大丈夫だよ、大ちゃんが連れて行ってくれるよ」と、言って管理人室に急いだ。  だけど、管理人室で待っていたのは、いつものTシャツにデニムに黒のギャルソンエプロンをした大ちゃんではなくて……慌ただしくスーツに着替えたり髪を整えたりしている大ちゃんの姿だった。  ユキナさんはリュセルで焼き菓子の仕込み支度があるからと、もう管理人室にはいなかった。  滅多にないスーツ姿に、「大ちゃん、出かけるの?」と、俺が訊くと、寝室の姿見の前でネクタイを締めている大ちゃんが鏡越しに俺とハルの方を見ながら頷いて答える。 「すみません、ちょっと急用ができてしまって……申し訳ないんですが、お留守番を頼みます」 「え、ああ、うん……」 「もし出かける場合は、アパート中の鍵を閉めて行ってくださいね」 「夕方までには戻れると思いますので。晴喜、いい子にしててくださいね」と、言い残して、普段よりきちんとした格好の大ちゃんも出かけてしまう。  そうして、俺とハルがメゾンに残されたんだけれど――大ちゃんが出て行ってしまったあたりから、ハルは急降下で機嫌が悪くなったのだ。  海は無理でも、電車に乗って隣町の市民プールぐらいなら俺でも連れて行けなくはないから、そこに行く? と、訊いてみたんだけれど……ハルは首を縦に振らなかった。  結局、パンケーキはふた口ほどしか食べてくれず、残りは俺がなんとか食べた。甘ったるいメイプルシロップとバターのぬるく混じった味が口の中に広がって胸がちょっと焼ける。  公園に連れて行こうにも、きっとハルはさっきみたいにうつむいたままなんだろうな……初めての事態に、俺は途方に暮れていた。  いつも機嫌がよくて聞き分けがよくてにこにこしているハルが、大好きなパンケーキも食べないほどに機嫌を損ねるなんてよっぽどのことだろう。 (――当たり前だよな、初めて見る海をあんなに楽しみにしていたんだから)  赤い丸にぐるぐると囲まれた今日の日付のカレンダーを眺めて俺は溜め息をつく。  もしかしたらずっと、ここに来る前から、ハルはこんな風に独りぼっちで過ごしていたのかもしれない。  パパとママとドライブに連れて行ってもらえない、夜はひとりでいることもある……そう、ハルが言っていたのを思い出した。  独りぼっちは嫌だ、と、ハルは親にも言えたこともないのかもしれない。ずっといい子でいなきゃいけなかったかもしれないことを考えたら、いまのこの不機嫌は、彼にとっては最大の意思表示なんだろう。  そう思うと、俺はたまらなくハルが痛々しかったし、とても申し訳なく思った。  そして同じくらい、ハルからの意思表示をきちんと受け止めて答えてあげたい、とも。  朝食の片づけを終えてから、大ちゃんに頼まれていた管理人室とエントランスの掃除をしている間も、ハルは庭で帽子をかぶってぶらぶらと歩きまわったりしていた。その横顔は、声をかけなくてもまだ不機嫌なのが見て取れる。  掃除を終えてから、俺はアパートの裏にある倉庫から大きな金盥(かなだらい)や長いホースを出してきて庭に並べた。  金盥は大ちゃんがマットとかを踏み洗いするときや聡太さんがチョコを洗ってやるときとかに使うやつだ。ホースは長く伸ばして風呂場の水道につなぐ。  それからまた倉庫に戻って、今度は古いパラソルを出して金盥の隣にさして広げる。あと、折り畳みの椅子も用意。 「あとは、水を張れば完成、っと……」  再び風呂場に駆け込んで、蛇口をひねって水が勢いよく流れ出すのを見届けていると、庭の方から悲鳴が聞こえた。  声はきっとハルだから、ハルに何かあったのかと慌てて庭に行くと、ハルが金盥の横でホースを手にしたままびしょびしょの姿で呆然と立っていた。どうやらホースに顔を近づけてしまったところに水が出てきたようだ。  ハルのそばに駆け寄り、しゃがんで手でとりあえず水の滴る顔を拭ってやって、「大丈夫?」と、訊くと、小さくうなずいた。 「ごめん、急に水出てきてびっくりしたよね」 「潤くん、これ、なにするの?」 「これはねぇ、海ごっこをやろうかなと思ってね。ハル、やる?」  俺の言葉に、あんなに不機嫌だったハルの顔がたちまちに晴れていく。  「やるぅ!」と、応えるが早いか、ハルはすぐに水着に着替えに部屋に飛び込んでいった。  ようやく笑ってくれたハルにホッとした俺は、さっそく海っぽいBGMをスマホで探し始める。  砂浜に波が打ち寄せるような音を見つけた頃に、ハルが先日買ってもらったばかりの水着を身に着けて庭に出てきた。  真夏の強烈な陽射しの下では、ハルの痩せっぽちな小さな白い身体はすぐに溶けてしまいそうだ。  金盥に浸かりながら、ハルは楽しそうに遊び始めた。時折、俺が金盥を揺らしてやったりしてさざ波を立ててやると、ハルは嬉しそうにはしゃいだ声をあげる。  海“ごっこ”だから、海らしいことなんてほとんどないんだけど、ハルはそれでも嬉しそうにしていて、「潤くんの海だねぇ」と、いつものように機嫌よく笑ってくれる。  それが何より嬉しくて、俺はTシャツが汗で背中に引っ付いても、金盥を揺すってやった。 「おいしい! 潤くんのミートソースおいしい!」  二時間ほど海ごっこをして、お腹空いたというハルにレトルトのミートソースパスタを作ってやった。ソースにひき肉と玉ねぎとニンニクを足してやったら、ハルはたいそう気に入ったみたいだ。  パラソルの下に椅子を置いて、パスタ皿を膝の上に置いて外で食べる昼食はいつもよりうんと美味しかった。  口元をソースだらけにしながらパスタをモリモリ食べる姿は、少し陽に焼けたせいか、昨日までよりも大きくなっているような気がする。  見上げた空は突き抜けるように青く、白い雲すらない。時折飛行機らしきものが遠くちいさく横切っていく。 「ねえ、潤くん」 「うん?」 「ダイもユキナも、カジイもサイトーも……みんな、帰ってくる?」  空っぽになった皿を膝に乗せて空を見上げながら、ハルがぽつりと聞いてきた。その声は手許の皿のように空っぽで何の感情も読み取れなくて、それが一層、彼が一番気にかけていることを感じさせる。  ハルは、いつもいい子で待っていなさいと言われて、置いていかれていたんだろう。もしかしたら、あの春の夜にも。  いい子であることでしか、自分を認めてもらえなかったのかもしれないハルのこれまでの日々を思うと、ただ単純に彼の言葉を肯定するだけでは意味がないようにも思えた。 「帰ってくるよ、ちゃんと。ハルはいい子だし、みんなハルが大好きなんだから」  口元に着いたソースを拭いながら言うと、ハルはこちらを向いて少し照れ臭そうに笑う。  誰も、ハルを置いて行かないよ。だから、安心してもっとわがままになっていいんだよ……そう、ちゃんと口にできるようになりたい。口にしても焦ったり悔やんだりしないようになりたい。  そのためには、どうしたらいいんだろう……そんなことを考えながら、俺は陽に焼けた細い肩を眺めていた。
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