*13 電話の正体は歪んだ認知の大人だった話

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*13 電話の正体は歪んだ認知の大人だった話

 ハルと海ごっこの片づけをしてしばらくした夕方遅く、大ちゃんはメゾンに帰ってきた。  リュセルに寄ってきたのか、ユキナさんも一緒だったけれど、ふたりしてなんだかちょっと疲れた顔をしている。 「おかえり、大ちゃん、ユキナさん」 「おかえりぃ! あのね、潤くんが海ごっこしてくれたんだよ!」  管理人室で俺が夕食の豚丼の具を作りながらハルとふたりを出迎えたんだけど、大ちゃんは曖昧に笑って、「ただいま」とだけ言って奥の部屋に着替えに行ってしまった。  なんだかいつもと様子がちょっと違うような気がして、ハルと顔を見合わせていたら、「豚丼? あー、お腹減っちゃったぁ」と、ユキナさんが言って、俺らの方を見て訊ねてくる。 「ハルくん、海ごっこしたんだって?」 「うん! あのね、潤くんがね……」  ユキナさんに聞かれて、ハルは嬉しそうに話し始める。ハルの話をいつもと変わらない様子で、ダイニングテーブルの椅子に座って頬杖つきながらユキナさんは聞いているように見えた。  ……ほんの少し、ユキナさんもいつもと様子が違った気がしたんだけど……気のせいかな? そう、思いながら、俺はすぐにフライパンで炒めている肉の方に注意を戻した。  丼はまあまあ上出来で、海ごっこをしてだいぶお腹が空いたのか、ハルは小ぶりの丼いっぱいに食べていた。  大ちゃんもユキナさんも、特に食欲がない感じでもなくて、風呂はいつものように俺がハルと一緒に入ったりなんかしたりしている内にハルを寝かしつける時間になった。  夜も九時を過ぎれば、たいていの場合ハルは寝付いてしまう。ハルが寝た後は俺ひとりでゲームしたり、課題をやったりして一人の時間を過ごすことが多い。  でも今日は、ハルが寝た頃を見計らって大ちゃんが部屋に来た。ユキナさんは割としょっちゅう来るから、大ちゃんだけというのは珍しい。  大ちゃんが俺の部屋に来ないことはないんだけれど、来るときは何か改まった……例えば、成績の話だとか、メゾンに来てから半年とか節目の時期に様子はどうだとか、そういうことを聞きに来る時がほとんどだ。  だからなのか、大ちゃんが部屋のドアをノックして入ってきた時、少し緊張した。  でもそれはきっと、部屋に来ることが珍しいからだけじゃなくて、今朝や夕方の様子から何かを感じていたのかもしれない。  部屋に置いている小さな冷蔵庫から麦茶を出してコップに注いで出したけれど、大ちゃんはそれに手を付けず、少し俯いたままだ。  一番最近大ちゃんがこの部屋に来たのは、ハルをメゾンに連れてきた翌日の、やっぱり夜だった。  警察に届けがないか確認したことと、特別な許可をもらってメゾンにハルを置いていてもいいと言われたことを話しに来てくれた。 (――もしかして、ハルのことで何かあったのかな……)  なんとなく浮かんだ予想に、俺は喜んでいいことなのかどうかわからず、一瞬ためらった。  ハルはいままだ迷子の状態で、家族からの迎えを待っていることになっている。  家族に連絡がつくことは、どういうことに繋がるのか抜きにして、ハルにとっては良いことなのかもしれないのに、俺はなぜかハルに関する何かが、いままでのことから良いもののように思えないでいた。  大ちゃんが何となく疲れた顔をしているからだろうか……そう、思いながら大ちゃんの言葉を待っていたら、「……今日なんですけれど」と、切り出された。 「……今日なんですけれど……晴喜の、父親だという人物に、会ってきました」 「えっ? 父親?」  大ちゃんの言葉に、俺は飲みかけていた麦茶入りのコップをぎゅっと握りしめている。ただそれだけの言葉で、俺はなんだか嫌な気分になっていた。  ハルの父親――それは、つい半月ほど前に突然メゾンに電話をよこしてきた人物だ。  それだけであるなら、俺がべつに嫌な気分になることはない。ハルが待ち焦がれている家族に連絡がついたのだから、むしろ嬉しい気持ちが出てくるはずだし、大ちゃんがこんなに疲れ切った顔をしていることもないと思う。  そうならないのは――ハルが、父親だという電話の声を聞いてひどく怯えていたことと、翌日しばらく元気がなくなったことが気にかかっていたからだ。  ハルに声だけであんな怯えた表情をさせて、そもそもいままで怖い思いをさせたてきたかもしれない人物と会ってきた……それだけで俺にとっては充分嫌な存在だ。  その気持ちが、顔に出ていたんだろう。大ちゃんが苦笑して、「そんな怖い顔をしないでください、潤」と言った。 「だって……その、ハルの父親ってやつは、電話かけてきただけでハルを怯えさせたりするんだよ? そもそも何カ月も経ってからのこのこ連絡してくるとか……ちょっと常識ないんじゃない?」  俺は苛立っていたんだと思う。見ず知らずの会ったこともない大人に対してそんなことをためらいなく言ってしまうくらいに。  普段だったら、きっと大ちゃんは、「そういうことを簡単に言ってはいけませんよ」くらい言って軽く叱ってきそうなのに、今日の大ちゃんは黙っていた。  黙っていたどころか、「そうかもしれませんね……」と、呟きもする。  俺が思わず、どういうこと? と、質問を返すと、大ちゃんは今日なんでハルの父親という人物に会うことになったのかを話してくれた。  そもそものきっかけは、やっぱりこの前の電話だったらしい。  あの時は留守電にハルのことを訊ねかけて電話は切れてしまっていたけれど、実は今朝になってまた電話がかかってきたんだそうだ。 『――晴喜のことで、お話があるんですが……今日、11時に**ホテルのラウンジでお待ちしております』  そんな、一方的な約束を取りつけてきて、大ちゃんが行くとも何も言っていないのに一方的に電話は切れた。  行かない、という選択肢もあったんだろうけれど……と、大ちゃんは思ったけれど、どうしてもこのまま放っておいていいようにも思えず、指定された場所に向かった。  ラウンジにいたのは、大ちゃんより十歳以上は年上であろう、ちょっと厳つい体格の目の細いスポーツ刈りの男で、ハルの父親だと名乗ったらしい。 「父親? いまさら? てかなんでホテルにわざわざ呼び出したりするわけ? ウチに来ればいいのに」 「わかりません……兎に角その彼は、私が着くなり晴喜を引取りたいと話を切り出したんです」  父親がどうしてメゾンに来られないのかとか、どうして捜索願を出していなかったのかという説明は一切なくて、ハルをすぐにでも引き取りたいということと、世話になったお礼にそれなりの額の金を渡したいと言ってきたらしい。  ハルをすぐにでも引き取りたい理由、それは、ハルがいわゆる“お受験”を控えている身で、これ以上勉強に遅れが出てはいけないから、ということと、あとは、「私の一身上の都合で」とだけ言って、父親は詳しくは語ろうとしなかったという。 「お受験って、あの、テスト受けて有名な小学校とか入るってやつ?」 「でしょうね……詳細は聞きませんでしたが」 「てか、一身上の都合ってなんだよ……そんなの、そっちの勝手じゃんか」  大ちゃんは俺の言葉にうなずき、溜め息をつく。  そもそも、大ちゃんとしては、ハルの面倒を見たことでかかったお金なんかは、特にハルの親に請求しようとは考えていない、と言う。「お金が欲しくてあの子をここに置いているわけではありませんから」と、大ちゃんは苦々しく付け加えながら。 「それに、こう言っては何ですが……どうしても、晴喜を引取りたいという理由を本当に信用していいように思えなくて……先程ちょっと調べてみたんですが」 「調べて、なんかわかったの?」 「晴喜の父親だという男は、K県のS市の市議会議員……の可能性があるんです」 「えっ……それって……」 「晴喜は、その議員の愛人の子なのかもしれません。ですから、表立って捜索願を出すことはできないんでしょう」 「そんな! なんで……」 「政治家にはクリーンなイメージが必須と言われていますからね……愛人が自分の子らしき子どもをどこかに置き去りにしたなんてなったらスキャンダルですから」 「だからって金で解決するって言うのかよ?!」  大ちゃんは俺の言葉に唇を噛んで俯いたままだった。きっとその男のことを思い出しているのかもしれない。  ハルが世話になった、ありがとう、のひと言もなく、ただかかった費用の話ばかりをするその父親だと言う男の不誠実な態度がどうしても解せなかった大ちゃんは、男がジャケットの内ポケットから財布らしきものを取り出そうとしたのを止めて、こうも言ったそうだ。 「“私たちは、お金欲しさに息子さんを我が家に置いているのではありません。彼が待ち焦がれる本当の家族を共に待つために一緒にいるんです”……と、言ったんですけれど……」  そう言うと、大ちゃんはうつむいたまま大きく溜め息をついた。その吐息は、悲しみと不快感に満ちていた。「向こうは、わかってはくれませんでした……」と、大ちゃんは呟いた。 「“そういうきれいごとを言う人ほど後でお金を法外にせびってくるんですよ”とか、“それともあの子を通じてあの子の母親と連絡を取れたらなんて思ってませんか?”とか、言われましてね……」 「ひどい……なんでそんな……大ちゃんは、なんて言ったの?」 「それはそちらがそういうお考えだからじゃないですか、って言ったら……思い切り顔をしかめていましたね」  大ちゃんはその時のことを思い出しているのか、渋い顔をして手許を見つめて、そして苦笑する。  相手は、大ちゃんの言葉にあからさまにムッとした顔をして、兎に角自分が父親なんだからつれて来い、と言ったという。金ならいくらでもくれてやるから、と。  あまりの言葉に、俺は怒りでテーブルの上で握りしめていた拳が震えたほどだ。  なんでそんな本当に父親なのかどうかもわからないやつに、ハルを、それもいくらかの金と、よくわからないハルの意思を無視するような理由と引き換えにしなきゃいけないのか、受け入れられなかった。  そしてそれを拒むことを馬鹿にされたりひどいことを言われたりしなきゃなのかも理解できなかった。 「そんな……そんなのって、あんまりだ。そんな、ハルを物みたいに、自分の都合でろくに探さなかったのに、見つかったら金で引取ろうなんて……。しかも大ちゃんに向かってそんなこと言うなんて……ダメだよ、大ちゃん。絶対に、ダメだよ」 「わかってます……。それに、晴喜はやはり、たとえ本当の家族だったとしても、無条件に引き渡してはいけないのではないかと思います。あの父親と名乗る人物は、あまりに身勝手で、人としての思いやりに欠けているように思えてなりません……」  大ちゃんの言葉がその通りだと思ったから、俺は重くうなずいた。  たとえ今回接触してきたやつが本当にハルの父親だったとしても、簡単に引き渡しに応じてはいけないのは確実な気がしたから。  それはただハルが声を聞いただけで怯えたから、というだけでなく、今回の件であまりに親としての信頼性がないとも思えてならなかったからだ。 「今回で向こうがおとなしく引き下がるようなことはないと思います。いずれまたこちらに連絡を取ろうとしてくるでしょう。もしかしたら――」 「もしかしたら?」  何かを言いかけて口を噤んだ大ちゃんに俺が問うように声をかけると、大ちゃんは少しためらいながら、言葉を選びながら言葉を続ける。 「――もしかしたら、私たちが思ってもいないような手段で晴喜を取り戻そうとするかもしれません……お金で物事を解決できると考えているような人たちですからね……」  大ちゃんの言葉に、俺は血の気が引く思いがした。  金で物事を解決しようとするような、俺らとは考えがまったく違う妙な奴らなのだとしたら、どんな手を使ってでもハルの居所を探り出してきたんだろうし、その中で、俺のスマホの電話番号もメゾンの管理人室の電話番号も知りえたんだろう。  蛇みたいな執着心にも似たやつらの気持ちの悪さに寒気すら覚えた。そこまでしてハルを取り戻そうとするくせに、その実愛情のようなものがカケラも感じられないのもその理由の中にあった。  ――俺は、なんだかすごく厄介で面倒なことをメゾンに持ち込んでしまったのかもしれない…… 「ごめん、なさい……俺、すごく、厄介なこと、持ってきちゃったんだね……」  自分の考えなしの言動が招いた今回の事態に、俺はなんと言って詫びればいいのかわからなかった。ようやく絞り出した言葉もスカスカな声に乗って零れ落ちて、テーブルの上を転がる。  俯いて何も言えなくなった俺に、大ちゃんがそっと名前を呼んだ。  顔をあげると、大ちゃんは少し困ったような顔で笑っていた。 「確かに、今回の件はとても厄介かもしれません。しかし、潤。あなたがあの子を、晴喜をここに置いてくれとあの時言ってくれなかったら……もっと悪い事態になっていた可能性だってあるんです」 「悪い、事態……」  ハルは、夜ひとりで家にいると言っていたのを俺は思い出した。そして、異様なまでにいい子であることにこだわることも、そうでい続けていることも。  ハルにそうであれと強いる環境がそこに戻してやることが、果たしてハルにとって良いものでないことは、彼がメゾンに来てからなんとなくわかり始めていた。  だから、大ちゃんの言う“悪い事態”がすぐに脳裏をよぎって、俺は背筋が寒くなった。 「大ちゃん、俺……よかったのかな、ハル、ここに連れてきて……」 「私はよかったと思います。少なくとも、ここにはあの子が怖がる大人はいませんから」 「そうだね……」 「潤、少し大変になるかもしれませんが、あの子を守りましょう、一緒に」  大ちゃんがやさしく微笑みかけてきてくれて、俺はすごくホッとしていた。あの春の夜から、ずっと、自分が言い出したことに全く後悔がなかったわけではないから。  ホッとすると視界が滲んでしまって、俺は慌てて目許を拭う。大ちゃんは、見ていないふりをして麦茶を飲んでいた。  ダイニングの隣の部屋ではハルが小さく寝息を立てている。あの春の夜ここに来た時よりもずっと安心しきった顔をして。  それだけでも、俺は自分のとった行動に間違いはなかったと思えるような気がする。  夏の夜の闇が、深い色でダイニングの窓の向こうに広がっていた。
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