*14 ひとつの答え、ひとつの決意、ひとつの約束

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*14 ひとつの答え、ひとつの決意、ひとつの約束

 俺の夏休みが終わって、前期の期末テストや文化祭が行われて、合間にバイトもしつつ何かと忙しい日々を送っている。  相変わらず、ハルはメゾンとユキナさんのリュセルの間を行き来しながら、家族からの迎えを待っている……ということになっている日々だ。  俺も学校とバイトの合間にハルと遊んでやったり、ハルは割とお勉強好きなところもあるので、簡単なドリルを見てやったりして、割と穏やかに過ごしている。  このまま、絵の具が水に溶けるみたいに、ゆるゆるとハルはメゾンの景色の中に溶け込んでいくんだろうか……そう、ぼんやりと思い始めていた頃、ひとつの話が大ちゃんから出された。 「晴喜、ちょっとお話があるんですが、良いですか?」  十月の連休の午後、おやつに大ちゃんが作った梨のジャムがたっぷりかけられたスコーンを食べていたら、改まった感じで切り出された。  ハルと俺はきょとんとして顔を見合わせ、「おはなし?」と、ハルは首を傾げる。  大ちゃんはハルの言葉にうなずいて、少し難しい顔をしていた。 「晴喜は、いま、どうしてメゾンのおうちにいるのか、知っていますか?」  大ちゃんの質問に、ハルはうなずいて、「ママのおむかえまってるの」と、答える。その声は、あの春の夜から変わらずまっすぐだ。  ハルの答えに大ちゃんは、「そうですね、お迎えを待っているんでしたね」と、確認するように言う。  大ちゃんは、なにを言いだそうとしているんだろう……もしかして、ハルの親と連絡が着いたのかな……一瞬過ぎった、不安だけれど、そうだと言ってはいけないことを思い浮かべて俺は身を固くする。  ほんの少し、大ちゃんは口を(つぐ)んで俯いて、何か言葉を選んでいるような風にしてから、顔をあげてハルの方を向いた。 「ではもし、お迎えが、パパだったら……ハルは、パパのおうちに行きますか?」 「えっ……」  思わず俺が呟いてしまうほどに、大ちゃんの切り出した言葉は思いがけなかった。  ハルを迎えに来るのが、あの父親――あの、自分の都合でハルを捜すこともせず、引取るにも金銭をちらつかせたりするようなことをしたかもしれないような、とても良識あるとは言えない――だったなら……その言葉に、俺は思わず顔をしかめる。  警察との約束では、家族――たとえそれが、あんな父親であっても――から引取の申し出があったら、応じるというものだったから、迎えに来たらハルが引取られる可能性は何よりも高いと言える。本当かどうかは別として、彼が父親となっているんだとしたら。  でもどうしても、俺はそれが受け入れがたかった。あんなハルを物みたいに扱うようなやつのところに行かせてしまったら……ハルがいまメゾンで見せているような笑顔が見られなくなるような気がしてならないから。 「大ちゃん、それって……あの電話の――」 「潤、いま私は、晴喜に聞いているんです」  自分の感情のままに意見を言おうとした俺に、静かにぴしゃりと大ちゃんは言った。  大ちゃんの表情こそいつも通り穏やかだったけれど、俺はうっかりやってはいけないこと――自分の意のままにハルを扱おうとする、あの父親と同じこと――をしようとしていたのだから、そんな風に言われても仕方なかった。  俺が慌てて口を塞ぎ、そっと隣に座るハルを見ると、ハルは食べかけのスコーンを手にしたまま少し俯いて考えている。  いつもより重たい沈黙が管理人室に漂っていて、外からは小鳥のさえずりの声が聞こえたほどだ。  掃き出しの窓のところに吊るしているウィンドベルが小さく数回鳴り、ハルはゆっくりと顔をあげると、そのままゆっくり首を横に振った。 「――行かない。ハル、ママまってる……パパは、好きだけど、怖いから、ヤなの……」  初めて聞く、ハルの家族への本音。それは、混じり気のない言葉と声なだけに、彼の心がそのまま紡がれていた。  そうか……ハルも、やっぱりそう思っていたんだ……それがはっきりと解っただけでも、俺は少しホッとする。  ただ見知らぬ街にひとり残された寂しさで家族ならだれでも迎えに来て欲しい、というのでなくて、本当に迎えに来て欲しいひとをちゃんと誰なのかを、彼なりに見極めているのだ。  ハルの言葉を、大ちゃんは何か手帳のようなものに丁寧に書き記して、それからまた、ハルに質問をする。 「そうですか……では、もし、このままママがお迎えに来ない、となったら、どうしますか? パパのところに、行きますか?」 「大ちゃん、それって……」  可能性がないわけではないけれど、それをそのまま隠しもごまかしもしないで、まだたった四歳のハルに訊いてしまうのはあまりに残酷に思えた。  俺が思わずまた口を挟みかけて、大ちゃんが人さし指を立ててシィッ、というようにジェスチャーしたので、今度も俺は口をつぐむ。  なんの意図があってこんな残酷な……それもあるかどうかわからない仮定の話をするんだろう。大ちゃんの言葉に半ば苛立ちながらハルの答えを待つしかなかった。  ハルは、さっきよりもうんと長く考えている。  ――考えたくもないよな、たとえ仮でも、母親が来ないかもしれないなんて…… 俺は、心からハルに同情していた。  何分か経って、ハルがようやく顔をあげた。その目は少し潤んでいたけれど、泣いてはいない。 「パパのところには、行かない。ママが来ないなら……ハル、メゾンのおうちの子になる」 「ハル……それって……」  思ってもいなかったハルの言葉に動揺が隠せない俺がハルの名を思わず呼ぶと、ハルは俺の方を振り返って、にっこりといつものように笑う。  「だってハル、潤くんといっしょがいいんだもん。大好きだから!」と、言って、ハルは俺の腕に抱き着いてきた。  大ちゃんは、やっぱり何かをメモしていて、書き終えてから顔をあげてあたたかい眼をして俺とハルの姿を見ている。 「――では、そうしましょう」 「そうしましょう、って? 大ちゃん、なにをするの?」  俺がハル抱き着かれたまま、メモしていた手帳を閉じて何かを決意したようにうなずく大ちゃんに問うと、改まったように俺とハルの方を見据えてこう答えた。 「晴喜を、養子に迎える手続きを取ります」 「え、それって……俺と、兄弟になるかも、ってこと?」  俺が恐る恐る訊ねると、大ちゃんは、「ええ、そうなりますね」と、やさしく微笑んでうなずく。  「まだ確定のことではありませんが、もう少し様子を見て、もう向こうから連絡がないようなら、そうしましょう」と、大ちゃんが改めて言うのが終わるか終わらないかのうちに、俺はハルを抱きしめていた。  ハルはまだ少し話が呑み込めなくてぽかんとしていたけれど。 「ハル……メゾンの子になる、の?」 「なれるかもしれないんだって! ハル、もう俺とばいばいしなくてよくなるよ!」 「ホントに……?」  俺の腕に絡んでいた小さな腕の力が強くなっていく。応えるようにその手を握りしめたら、丸い頬がひっついてきた。そしてぐりぐりと身体を押し付けてきて、喜びの感情を表している。  そっと頭を撫でてやったら、腕に絡んでいた手が首に上がってきて、そのまま強く引っ張られ――そして頬と耳の間に幼い唇がぶつかってきた。 「ハル?!」  思ってもいなかったリアクションに、俺が思わず触れられたところに手を当ててハルから離れたら、ハルはきょとんとした顔で俺を見ている。驚かれたことに驚いた、というように。 「ハ、ハル……いま、なにして……」 「んぅ? だいすきだよ、うれしいよってときは、ちゅーするんでしょ?」 「えーっと、それは……」  まったく噓な話ではないので強く否定できず、しどろもどろになって大ちゃんに助けを求めるように見たら、大ちゃんはおかしそうに笑いをこらえていた。 「ハル、それ誰から聞いたの?」 「えっとねぇ、カジイとサイトー。このまえふたりでちゅーってしてたもん」 「ええ~、もう~……」  どういう状況でそうなったのかわからないけれど、かなり早い情操教育を受けてしまったのは間違いない。  俺はハルを叱ることもできないで困ったように笑うしかできなかったのは、キスされたのはびっくりしたけれど、全然いやじゃなくて、むしろ……嬉しくさえあったから。 「おやおや、まるで結婚式の誓いみたいですね」 「大ちゃん!!」 「わぁい、ハル、潤くんとけっこんするぅ!」 「ハル、何言って……」  いいじゃないですか、熱烈で、なんて大ちゃんはくすくす笑っていたけれど、俺は内心苦笑いするしかなかった。イヤだとかそういうのじゃなくて……あまりに、自分がぼんやりと望むなにかをいきなり具体的に示された照れくささがあって。  照れくさくてくすぐったかったけれど、急に転がり始めた俺とハルの行く先が明るいものであるかのように思えて嬉しくて仕方なくて、俺はただだらしなくニヤニヤしていた。  ――この先に、なにが待ち受けているかも全然わからないままで。
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