*16 砂のように崩れてしまうほどに儚い誓いと夢

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*16 砂のように崩れてしまうほどに儚い誓いと夢

 翌朝は、いつもどおりの朝だったはずだ。  今日は連休最終日だから近くのショッピングモールにでも遊びに行こうか、なんて言い合いながら、管理人室のみんなでゆっくり朝食後のコーヒーやホットミルクを飲んでいた。  十時を回って、ユキナさんはリュセルを開けに行って、俺とハルが朝食の片づけを、大ちゃんが管理人室の掃除をしている時だった。  メゾン・ド・モカには二種類ベルがあって、一つは管理人室のドアのところに、もう一つはメゾンの外門のところにあって、それはインターホンになっている。  大ちゃんがかけている掃除機の音の合間に、外門のベルが鳴った。 「いま、誰か来た?」 「みたいですねぇ……」  インターホンは旧式のだから、モニターが付いていない。「はい、どちらさまですか?」と、大ちゃんがスピーカー越しに訊ねると、来訪者はこう答えた。 『あのぉ、飯塚ですぅ。そこにぃ、うちの子、いますぅ?』 「え……?」  スピーカー越しでもわかる、甘ったるい声。その声に凍り付くように立ち止まって振り返ったのは、俺と大ちゃんだけではなかった。  手にしていたプラスチックの子ども用のマグが、小さな手許から滑り落ちていく。マグの中に入っていた薄い泡だらけの水が、服と床を濡らして転がる。 「……ママ?」  ハルの眼が大きく見開かれ、弾かれたように管理人室を飛び出していく。その足は裸足のままで、俺と大ちゃんが止める間もなかった。  管理人室のドアが大きな音を立てて開かれた音で、俺は我に返り、慌ててハルの後を追う。ハルは、エントランスのガラス戸も開け放って、裸足のまま外門まで駆けて行った。 「ママ! ママぁ!」  黒い鉄のメゾンの外門のところには、俺より少し背の低い、明るい茶色の派手な長い髪をかき上げながら気だるげに立っている痩せた女のひとが立っていた。  これが、ハルの母親――ハルを、独りぼっちでこの街に置いていった……  ハルは外門の鍵の開け方は知っているから、もどかしそうに鍵を開けて、そしてその女のひとに飛びつく。はっきりと見えなかったけれど、その目にはきっと涙がにじんでいる筈だ。  一方でハルの母親は、足に飛びついてきたハルの頭を撫でるわけでも、屈んで抱きしめてやるでもなく、やっぱり気だるげに溜め息をついているだけだった。  俺と、俺の後を追ってハルの靴を持って出てきた大ちゃんの姿に気づいたハルの母親は、ああ、というように口を少し開いて、笑んだ。  その笑い方は、なんだかひどく荒んでいて疲れていて、とてもハルとの再会を喜んでいるようには見えなかった。 「……なんかぁ、超お世話になったみたいでぇ……晴喜、お礼言いな」  語尾の伸びる独特な喋り方で、妙に神経に障るなと思いながら、俺と大ちゃんは戸惑いを隠せずただぼうっと聞いていた。  ハルは、泣き濡れた顔のままこちらを振り返り、「え、えと……あり……がと……」と、消えそうな声で言って、頭を無理矢理下げさせられる。  その一連の動作が、俺にすごく不快感を覚えさせた。彼女がハルを迎えに来つつも、嬉しそうでないことも、無理矢理に俺らに頭を下げさせるところも。  苛立ちが言葉になって口から飛び出してきそうなほどになっていたその瞬間、彼女はハルが……いや、俺が一番恐れていた言葉を放った。 「――じゃ、帰るよ」 「えっ……」 「え、じゃないよぉ。あんたがいなくなったからぁ、あの人に嫌味言われちゃったんだからさぁ。早く帰ってぇ、あの人にも謝んなよ、あんたも」  苛立たし気に溜め息交じりにそんなことを言う母親に、ハルは濡れたままの顔を向ける。何を言われたのかを全く受け入れていない目をして。  彼女は、ハルのそんな表情も眼差しも全く意に返している様子はなかった。 「帰るの? ハル、帰るの?」 「帰るつってんじゃん。ほら、靴はいて、行くよ。あんたさぁ、制服どうしたのぉ?」 「ウチに来た時の服は、こちらで、預かってます」  事態を受け入れられないハルがまた泣き出しそうなのを見かねるように、大ちゃんが口を挟んだ。  その手には、いつの間に取りに行ったのか、最初にハルに会った時に身に着けていた幼稚園の制服を畳んだものがあった。  母親は、「あぁ、どーもぉ」とだけ言って、大ちゃんにろくにお礼も言わずに半ばひったくるように手に取って、そして靴もろくに履き終わらないハルの手を牽いて門から出て行こうとする。  このままではハルが連れて行かれる――俺はその態度がどうにも我慢できなくて、気づけば、「あの、」と、呼び止めていた。  「まだなにか?」というように、あからさまに面倒くさそうな顔をしてハルの母親は俺を振り返る。 「あの、もう、ハル……晴喜、くんは、家に帰るんですか?」 「そうですけどぉ?」 「どこで、彼がここにいるって知ったんですか?」 「え~? あの人からぁ、なんか面倒なことになりそうだからぁ、お前が迎えに行けよぉって先月かなぁ? 言われたから来ただけすけどぉ?」 「あの人って……その、晴喜くんの、父親っていう……」 「まあ、いちおー、そうなるのかなぁ? 血は繋がってないけどねぇ……だからぁ?」 「だったら、なんでもっと早く迎えに……」 「あーまあ、迷惑かけたなぁとは思うけどぉ、この子が勝手にどっか行ったから見つけられなかったんであってぇ、あーしのせいじゃないんすよねぇ」 「でも、そもそもは、あんたが、ハルを置いていかなければいい話じゃ……」 「あーしはぁ、この子にぃ、そこでいい子で待ってろって言ってたのぃ?」  彼女が暗に俺がここに連れてきたことをとがめているのを感じて、俺は、何も言い返せなかった。  いくら警察や児相から許可をもらっていたとはいえ、ハルの行方を解りにくくしたきっかけは俺にもあったかもしれないのだから。  だけど、ハルがあの春の夜に独りで見知らぬ街に置き去りにされていたのは事実で、俺に遇わなければどうなっていたかわからないのだって事実だ。  その上何カ月も自分からは連絡のひとつもよこさなかったのだって、親としての怠慢じゃないのかって思えてならない。 「だからって……あんなとこに、四歳の子ども置いてくなんてどういう神経して――」  苛立ちがふつふつとマグマみたいに沸き立っていくのが止められなくて、俺は怒鳴り出さないようにぎりぎりの感情でそう口にしかけた時、「潤、よしなさい」と、大ちゃんが止めに入った。  俺の苛立ちに煽られるようにハルの母親もまた俺をにらんでいて、険悪な空気が漂い始めていた。ハルは怯えた顔をして俺と母親の顔を交互に見ている。 「もぉ、いいでしょぉ? 帰るよ、晴喜」  黙り込んでしまった俺を、ハルの母親はふん、と鼻先で笑って、そのままハルの手を牽いてメゾンを出て行ってしまった。  ハルはずっと、俺に助けを求めるような目で見ていたけれど……俺は、ただいたずらに彼の母親を怒らせたに過ぎなかった。  ハルをメゾンの子にする手続きをするにあたって、父親と母親に家裁を介して連絡することも何度かあったので、俺らがハルを引取ろうと動いていたのは彼女もなんとなく知ってはいたのかもしれない。  そうなるまでずっとハルのことを放置していたくせに、いざ自分の手許から引き離されるとわかると慌てて親権と言う名の所有権を主張してくるなんて……それこそ、ハルを物のように扱っているようなものなのに。 (――面倒なことになるって……そうなるようにしていたのは、自分たちの方なのに……)  言い返せなかった言葉を呑み込むと、その棘で喉も腹の中も痛かった。  所詮……俺は、お迎えが来るまでの都合のいいつなぎみたいなもんでしかなかったんだろうか……行き場のない怒りと悲しみの入り混じった感情が頭の中で渦巻く。  ハルを、守れなかった。ずっと一緒にいようって約束したのに、それさえも守れなかった。目の前で引き離された幼いぬくもりの名残が、ぎりぎりとちいさく刻み込むように食い込んでくる。 「パパのところには、行かない。ママが来ないなら……ハル、メゾンのおうちの子になる」  ハルのあの言葉に嘘はなかったと思いたい。あの言葉は彼の心の声だったと思いたい。思いたかったけれど――すべてを打ち砕く存在が、あの母親なんだろうか……  昨日誓うように確かめ合った言葉は、母親という存在の前にあまりにもあっさりと崩されてしまった。成す術なく、波に呑まれる砂の城のように。  さらさらと崩れた俺とハルの誓いの言葉や夢は、木枯らしに乗って高い空に飛んでいった。
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