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*17 抜け殻になった俺に差し出される希望のチケット
青天の霹靂という言葉をこの前習ったのだけれど、まさにそんなことが起こったあの冬の始まりの朝以来、俺は何もする気にならなくなっていた。
もともと得意でなかった朝も一層遅くなって遅刻が増えたし、授業中もぼんやりしていて先生に叱られることも増えた。
小遣い欲しさでやっていたバイトは、ハルに何かお菓子とかオモチャとか買ってやれたらという目標ができてやりがいすら感じていたのに――
「ちょっとねぇ、遠藤君……最近注意力散漫すぎるんじゃない? レジ操作ミスだけでも今週三回もやってるじゃないの」
「……すみません」
季節は十二月、クリスマスだとかお歳暮だとか正月だとか、バイト先であるスーパー・ナミキはいつも以上に忙しいイベントばかりが続いている日々だ。
それなのに、バイトに入ってもう一年以上経つ俺が、新人でもしないようなミスをこのところ連発してしまっていて、チーフからかなりきつめの小言を食らった。
今までバイトでミスがなかったことはなかったし、怒られるのが今回初めてなわけでは全くない。そんなに俺だってやわな人間じゃないつもり……だったのに、すごくショックを受けた。
ハルが突然現れた母親から強制的に連れ帰られて半月以上が経つ。
メゾンはアパート内を駆け回る幼い声と足音が急に消えてしまったことで、本当に火が消えたように静かになってしまった。
特に管理人室や俺の部屋にはハルが使っていた着替えやオモチャ、食器なんかがそのまま行き場もなく残されていて、それが余計に持ち主の不在をあらわにしている。
メゾンに帰っても、管理人室にも俺の部屋にも、どこにもハルはいない。メゾンどころか、この街のどこにもいないんだ。
目を瞑ると、俺がバイト先のナミキの社割で買ってきたお菓子やジュースに大喜びしてくれていた姿や、眠い目をこすりながら俺が帰ってくるのを待っていてくれた時の姿や、俺の名前をとても大切なもののように口にした時の声なんかが不意に浮かんできて、鼻がツンと痛くなる。
目の前の景色が滲んで揺れて、滴らないように堪えて上を向いても、どんどん溢れて頬を伝っていく。
こんなにも俺のことを必要としてくれた存在はいままでになかった。いつでも俺はどこでもよその子で余計なものだったから。
全身全霊で俺の方に向かってきてくれて、幼いなりに目一杯の愛情をくれていた。
高い体温とひなたのにおいが力加減もなくぶつかって来てくれるのが、くすぐったくも嬉しかった。
人から必要とされて、愛情を向けられて、愛情を向けられた分返すとそれ以上に喜ばれる。
そういったことがこんなにも嬉しいなんて知らなかった俺に、ハルは教えて与えてくれた。
きっとハルは無意識だったんだろうけれど、だからこそ、余計にハルから向けられる感情はどれもきらきらとしていて甘くて、まるで極上のキャンディをハルとわかち合っているような日々だった。
でもそれは、もうどこにもないんだ――
「じゅーん、」
「よお、しょぼくれ」
「梶井!」
「なんだよ、しょぼくれてるやつにしょぼくれって言って何が悪いんだよ」
「そういう問題じゃないだろ!」
バイトから帰って、管理人室での夕食を終えてからも、なんとなくハルのものがまだ片付け切れていない自分の部屋に戻りたくなくて、エントランスの応接セットのソファでぼんやりしていたら、二階の賢さんと聡太さんが声をかけてきた。
賢さんが俺にかけた言葉が悪いとかなんとかでふたりが軽く言い合いを始めたんだけれど、俺はそれを止めるでも笑うでもなくぼーっと眺める。
俺がそんなだからか、ふたりはバツが悪そうな顔をして言い合いを止めた。
「……なんか、用?」
俺がぼんやりした声で問うと、賢さんと聡太さんは思い出したように顔を見合わせて、聡太さんがスウェットのポケットから一枚のチケットを出してきた。
チケットには、『Xmasスペシャルライブ!』とプリントされていて、ライブの日付は明後日だ。
ライブは夜の九時からで、十組ぐらいのバンドが出る対バンイベントで、オールナイトするらしい。チケットはドリンク飲み放題のチケットでもあった。
いつもふたりは、売り上げのノルマの掛けられたバンドのチケットを買ってくれって言うことがあったから、そういうことかなと思って俺がリュックから財布を出そうとしたら、「やるよ、それ」と、賢さんが言った。
「え? なん、で? いつも一銭もまけないからなって言うのに」
「俺らからのクリスマスプレゼントだ。この日はバイトも休みなんだろ?」
「うん、まあ……」
このライブの日はバイトも休みの金曜日ではあったから、ライブに行こうと思えば行けるのだけれど、ハルが帰ってしまってからというもの、なにをするのも億劫で仕方ない。
だから、何か適当な言い訳をして断ろうと口を開きかけたら、「俺ら、っつーのは、俺と斎藤だけじゃないからな」と、賢さんが更に言う。
賢さんの言葉の意味が解らなくて首を傾げていたら、聡太さんがより詳しく説明してくれた。
「このチケットは、俺と、梶井と、ダイとユキナからなんだよ。俺ら四人からの、潤へのクリスマスプレゼント」
「え……なんで、そんな……」
「お前がシケたツラずーっとしてるからだよ、潤」
「梶井! えーっと……ほら、晴喜が帰っちゃってからさ、潤、全然元気ないから……その―……」
「まあ、要するにパーッとやろうぜってことだよ。オールしてきていいって許可も、お前の保護者からもらってるしな」
「えっ、うそ」
「なので、潤はこの日は俺らとオールね! 決まりぃ!」
大ちゃんは割と何でもいいですよって言ってくれるんだけど、ユキナさんは割と厳しめなとこがあったりして、スマホを買ってもらうのもバイトを始めるのもまずは話合いというかプレゼンみたいなのをしなくてはいけなかった。
約束事をいくつも決めたり、破ったらこういうペナルティがあるよって決めたりとかもして、なかなか骨が折れることが多い。
だからって、大ちゃんもユキナさんに厳しすぎない? というわけでもなくて、「私はいいですけど、ユキナにも聞いてからですね」って必ず言われたし、ユキナさんも何がなんでもダメっていうわけではない。
たぶん、ふたりそれぞれの子育ての方針があって、それをお互いに尊重していて、かつ、俺の考えも聞こうっていうスタンスみたいだ。
三者三様の意見になることもあるから、特にバイトとか許可してもらうのに二カ月くらいかかったりもした。
そして大ちゃんもユキナさんも、俺がバイト以外で夜遅くなるのをいい顔をしない。賢さん達のバンドのライブに行ってもいいけど、だいたい九時までには帰って来いと言われる。
だから、オールナイトしてきてもいいと言われて、すごく俺は驚いていた。そして同時に、そんな特別な許可を出してしまうほどに、俺は気落ちして見えるということだろうとも気づかされる。
遠回しな励ましよりも、わかり易く強引なやさしさの方が、いまは有難かった。無理やりにでも、いまの俺に前を向かせようとしてくれる力が必要だったから。
「ありがと。絶対、行く」
「お礼ならダイとユキナに言いなよ。“何か潤の気が晴れそうなことない?”って訊いてきたの、ダイ達なんだから」
聡太さんの言葉に俺が何も言えないほど驚いていると、賢さんが、「良い親だな、あいつら」と、やさしく笑って言った。俺は、それに力強くうなずく。
間違いなく、俺はこの上なく最高で最良で最愛の親元にいることを実感していた。
「あ、ねえ、俺がチケット代出すからさ、友達もひとり連れて行っていい?」
「おう、いいぞ。その方がお前も退屈しないだろうし」
賢さんが快諾して、聡太さんがもう一枚チケットを取り出す。
お金を払ってから、俺はスマホで友達の坂神にメッセージを送った。きっとあいつなら、二つ返事で誘いに乗ってくれるだろうから。
メッセージを送りながら俺は少し笑っていたみたいで、「やっと笑ったな、お前」と、賢さんが言った。
俺が顔をあげると、賢さんと聡太さんが泣きそうなやさしい顔で微笑んで俺を見ていて、俺は本当に色んな人に心配をかけてしまっていることに気づかされたのだ。
ハルは、賢さんにも聡太さんにも、愛犬のチョコにだって懐いていた。
突然、挨拶もなしにいなくなってしまったことを知らせた時、ふたりは唖然としていたってユキナさんが言っていたっけ……そんなことを思い出して、俺は、自分だけがハルとの別れに傷ついているとばかり思っていたことにも気づかされた。
ハルは、本当に、このアパートの明かりのような存在だったんだな――今更に覚える喪失感は、あまりに深い。
だからとっさに、ごめんなさい、と言おうとしたけれど、それはなんか違う気がしたから、「ありがとう、賢さん、聡太さん」と、ぎこちなく笑って言った。
「おっし、チケットの元取るくらい飲ませてやるよ」
「ええー、そんなにソフドリ飲めないよぉ。まさか、アルコール込みなの?」
「まあまあ、そこんとこは目を瞑っててやるから」
お酒大好きな聡太さんの言葉に、おしゃれな顎ヒゲのあるシブい見た目に反してお酒が一切飲めない賢さんが顔をしかめて、「ほどほどにしとけよ、お前」と、苦笑する。
ようやく笑うことができて安堵した俺は、いまこの場にあの小さな笑い声がないことをとても寂しく思った。
今頃どこでどうしているだろうか。ひとりきりでないといいのだけれど……そう祈るくらいしか、俺にはできなかった。
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