*1 憂鬱(ゆううつ)な春の記憶

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*1 憂鬱(ゆううつ)な春の記憶

「潤、もう少しテンポよくご飯を食べられないんですか? もう八時過ぎてますよ」 「んー……わかってるよぉ……」  平日朝の恒例のお小言を呆れながら(だい)ちゃん――遠藤大輝(だいき)・俺の保護者であり、従兄(いとこ)でもある――が言って、俺に二杯目のカフェオレを淹れてくれた。  呆れながらも、大ちゃんのメガネの奥の眼は穏やかだから、怒っているわけではないのはわかる。  俺はそれを黙って受け取って、ひと口飲んで朝食のトーストを流し込む。  寝癖だらけのツーブロックまがいのショートヘアの後ろ髪を撫でつけながら、俺は登校までのタイムスケジュールを頭の中に並べる。  始業が八時半で、高校までは電車で十五分くらい、ここメゾン・ド・モカから最寄りの駅に行くまでは歩いてニ十分くらいかかるから……だからまあ、俺の遅刻は確定しているようなものだ。  カフェオレを飲み干してカップを置くと、テーブル挟んで目の前で待ち構えていた大ちゃんがササッと他の食器と一緒に流しに下げてしまう。  流しに立つ後ろ姿はすらりと高く、黒く長い髪を後ろにまとめているギャルソンエプロン姿は身内ながらいつもカッコいいと思う。 「今日は、バイトですか?」 「うん。だから帰るの遅くなるよ」  了解しました、と大ちゃんは言って、振り返って用意していてくれた弁当を手渡してくれた。  大ちゃんは毎日俺に朝ごはんも弁当を作ってくれる。そのどれも、めちゃくちゃ美味い。  弁当を受け取って通学用にしているリュックに入れていると、俺らがいるメゾン・ド・モカの管理人室のドアが勢いよく開いた。 「もーう、聞いてぇ。また二〇二号室の梶井(かじい)くんったらお家賃払ってくれないんだけど」  ドアを勢い良く開けて入ってきた小柄な女性は大ちゃんの奥さんで、同じく俺の保護者のユキナさん。明るい赤毛のゆるいウェーブのかかった髪を軽くかき上げて溜め息をついてダイニングテーブルに座る。  ユキナさんの言葉に、大ちゃんが困ったように笑って、「では後で私が言っておきましょう」と言ってカフェオレを淹れ、ユキナさんはお礼を言って受け取る。 「あれ? 潤くんまだいたの? 遅刻じゃない?」 「大丈夫、一時間目は古典だから」 「どういうことです?」  大ちゃんの問う言葉に、俺はちょっと思い出し笑いをする。  一時間目の古典の授業の先生はちょっと変わっていて、すごく照れ屋だとかで、目を瞑って授業をすることで有名だ。だから内職も居眠りもし放題で、もちろん遅刻もバレやしない。  そう、俺が理由を話すと、大ちゃんもユキナさんも苦笑した。 「そういう先生に限って、しっかり生徒のことは把握してたりするんだよぉ。早く学校行きなよ」 「ユキナの言うとおりです。先生には何でもお見通しですよ」 「わかってるってばぁ」 「早く行って、早く帰ってきなさい。今夜は潤の好きなカレーにしましょう」  俺がちょっとすねるようなそぶりをすると、大ちゃんは時々そんな風に俺が小さな子どものような言葉を言ったりするからくすぐったい。  彼なりの冗談のつもりなのはわかっているから(カレーは本当に作ってくれるけれど)、俺もいちいち苛立つことなんてない。  ただ、ああ、また気を遣わせてしまったな、とは思うのだけれど。  俺と大ちゃんは父親の方の従兄弟同士ではあるけれど、お互いの存在を知って対面したのはつい一年前の春……去年の今頃だったんだ。  俺は三歳の頃に両親から養育を放棄されて、親戚・知人の間を転々とした挙句施設に預けられて中学卒業間際まで過ごした。  高校進学をどうするか悩んでいる時にじいちゃん――大ちゃんのお父さん・隆三(りゅうぞう)さん――と連絡がついて、メゾンの管理人である大ちゃんとユキナさんの養子として引取られた。 「んじゃ、いってきまーす」 「はい、行ってらっしゃい」 「気を付けてねぇ」  リュックを背負って靴を履いて管理人室を出ると、ちょうど二階から二〇一号室の斎藤聡太(そうた)さんが愛犬のチョコを連れて二階から降りてくるところだった。  「お、いまから?」と、俺に聞いてくる聡太さんは明るい茶髪の頭は寝癖だらけだ。 「そうっす。完全に遅刻だけど。聡太さんは散歩?」 「も、あるけど、家賃払おうと思って。」 「あれ? 聡太さんは払ったんじゃないの?」 「や、これは梶井の。さっきダイから電話があったんだって。“これ以上滞納するなら斎藤との接触を禁止しますよ”って。そしたら慌てて出してきた」 「大ちゃん仕事早くてえげつない……賢さんちょっと可哀想だね……」 「まあ、それくらい言わないと、梶井はすぐ家賃溜めるから」  賢さんに同情する俺に、聡太さんは呆れたように苦笑する。  二〇一号室の梶井賢吾(けんご)さんと、この二〇二号室の聡太さんはともに二十代後半くらいで、接触を密にする仲……と言うとなんだかアレだけれど、要するにふたりは恋人同士で付き合っている。幼馴染で、もうかれこれ二十年近い仲らしい。 「あ、そうだ。明後日駅前のビエントでライブするから、よかったらおいでよ」 「やった! 行く!」  賢さんと聡太さんはバンドを組んでいて、時々こうしてライブに誘ってくれる。  ふたりの部屋はそれぞれ楽器でいっぱいで、特に賢さんは勝手に触るとめちゃくちゃ怒るぐらいに楽器好きだ。  ライブをやる場所はたいてい駅前のライブバハウス・ビエントで、賢さんはその近くのパスタ屋で、聡太さんは鮨屋でバイトしながらバンド活動をしている。 「ほら、潤、遅刻しちゃう」 「あ、やべ。いってきます!」  聡太さんに促されて俺は慌ててメゾンのエントランスのガラス戸を開いた。  春のやわらかな陽射しが容赦なく降り注いできて、俺は一瞬足を止める。  俺は春生まれだけど、春という季節が苦手だ。まだたった十七でも、軽くウツっぽくなるくらいに……というのは、流石に大げさだろうか。それでもテンションが下がるのはたしかだ。  春はどうしても、一番古い記憶――俺が親に捨てられた時の記憶をよみがえらせるから。  いつもは忘れたふりをしている桜吹雪の中に消えていく振り返ることがない背中と、何も言えなかった幼すぎる自分の中の寂しさが、一気にこの時季になるとリアルさを増すのが憂鬱(ゆううつ)で仕方ない。  だからどうしてもテンションが上がらなくて、ぐずぐずして学校を遅刻してしまいがちになる。  大ちゃんもユキナさんもその辺りを薄々感づいているのか、さっきみたいに早くしなさいと言いつつも、頭ごなしにひどく怒ったりしない。  まだ親として俺に気を遣っているからかもしれないけど、俺の気持ちを汲もうとしてくれているのは有難いから、その気持ちにいまは甘えさせてもらっている。 (……こういうのって、どこまで甘えていいんだろうなぁ)  甘えていいと思っていたら、いつの間にかむこうからすっと手を引くように態度を変えられたらどうしよう……その不安がないと言えば嘘になる。これまでずっとそういうのばかりだったから。  俺はどこに行ってもよその子で、うちの子ではなかったから、甘えていい上限がわからない。  手探りで甘えていい上限を探ろうとしていたら、急に“うち”と“よそ”の線引きされることもあったりして、そのたびに壁を感じずにはいられなかった。  でも……大ちゃんとユキナさんは、そういう手のひら返しみたいなの、しない気がする。親戚同士だし、まだ本性を知り尽くしたわけじゃないから、ただの勘でしかないんだけれど。  この勘が当たっていて、そして勘違いじゃないといいのに――なんてウマいことを思いつきながら、俺は学校に向かうべく、メゾン・ド・モカのある住宅街の道を走りだした。  今日もまた、穏やかになんでもない日が始まっていく――そう、思いながら。
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