*19 聖なる夜に訪れた複雑な奇跡

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*19 聖なる夜に訪れた複雑な奇跡

 初めて大ちゃん達公認で朝帰りをした翌々日は、クリスマスイブだった。  俺は昼からクリスマス対応のバイトで、賢さんと聡太さんもバンドのライブがあるからとかで朝から留守だ。  臨時のクリスマスケーキ売り場の客引きで声をかけたり、予約していたお客さんに手渡したりするのをやっていたんだけれど、時々親についてきているハルぐらいの年頃の子なんかを見ると、どうしても、「ああ、ハルがいたらなぁ……」なんて思ってしまった。  俺はずっとよその子扱いだったからクリスマスに特に思い入れなんてないし、ハルとクリスマスの話をする前に別れちゃったから何とも言えないんだけれど、それでも、こういうイベント事はハルが好きそうだなぁとかうっかり考えてしまいがちだ。  ハルがいなくなってしまったことに徐々に慣れつつあったけれど、寂しいことに変わりはなかったから。  営業時間がいつもより一時間ほど延長されて、バイトのシフトも一時間半ほど延長されて、ナミキを出たのは夜の十時前だった。  立ちっぱなしで声も出しっぱなしでくたくたになっていた俺は、自販機で買った缶コーヒーを飲みながらぼんやり歩いて帰る。  ひとりになると、どうしてもハルのことを考えてしまう。どうしているのかな、とか、いい子でいようと頑張りすぎていないかな、とか……暗いところで、ひとりで泣いていないかな、とか。  母親に連れて行かれたあの日、ハルも母親が突然現れて、そして家へ帰ると言われて、戸惑いを隠せない表情をしていた気がする。望んでいた形とは違った再会と別れに、ハルがまた傷ついていないかが俺は心配だった。  でも、どんなに俺がここで胸を痛めてハルを想っても……届くことはないんだ。昔俺が捨てられた時、父親に声が届かなかったように。 「ただいまー」 「おかえり、潤くん。お疲れ様。ビーフシチューあるよ」  自分の部屋に戻らず管理人室に顔を出したら、ユキナさんが出迎えてくれた。  ダイニングテーブルには大ちゃん特製の白パンと、ユキナさんお手製のビーフシチュー、ポテサラ、商店街の肉屋のローストチキンなど、ごちそうが並んでいた。  手を洗って食卓に着いて、挨拶も早々に済ませて俺はパンやらシチューやらを頬張る。 「あー、美味―い」 「そう、よかったぁ」 「ケーキもあるんですけど、どうします?」 「食べたい!」 「あたしは明日にしとく、太っちゃうから」 「そうですか? ケーキの一つや二つでユキナの体形が変わるとは思えませんよ」  大ちゃんの言葉に、ユキナさんは、えー、どうしよーと半分本気で頭を抱えていた。  今年のケーキも、商店街のレーヴという老舗の洋菓子店のもので、ユキナさんが子どもの時からお得意さんで大好きで、ウチでもよくお土産になったりする。  リュセルのオープンの時に焼き菓子の作り方のアドバイスをもらったこともあったそうで、ルーツはこの店にあったりするらしい。  ハルも、ユキナさんが焼くレーヴ仕込みのクッキーやスコーンが大好きだった。  大ちゃんが作る季節の果物のジャムをたっぷりつけて、それはもう美味しそうに頬張って。おいしいねぇ! と、毎日食べていたのに、毎日美味しさに驚いたように言っていた。  結局ユキナさんは大ちゃんの言葉に負けるようにケーキを食べていた。「生菓子だから悪くなっちゃうもの」とか言いながら。  クリスマスケーキ、ハルにも食べさせてあげたかったな……そんなことを思いながら、大ちゃんが切り分けてくれた俺の分のイチゴのケーキを食べようとしていたら、管理人室のベルが鳴った。  ベルは、外門のインターホンからで、俺らは顔を見合わせる。  時刻はもう夜の十時をとっくに過ぎている。こんな時間に来るヤツなんてとてもいい知らせのものに思えなくて、俺も大ちゃんも、ユキナさんも顔を見合わせたまま動けないでいた。  スルーするか、応じるか迷っている間にも、インターホンは鳴り続けている。  「どうする?」と、誰ともなく聞こうとしたその時、微かに、外から声が聞こえた。  小さなちいさな声に、俺は思わず立ち上がる。聞き覚えのある声だったからだ。 「潤くん?」 「どうか、しましたか?」  急に立ち上がって耳を澄ませ始めた俺に、ユキナさんも大ちゃんも怪訝そうな顔をしている。  それにも構わずじっと耳を澄ませていると、たしかに、聞こえたんだ。「――潤くん、」と、呼ぶ幼い声が。  誰の声なのかを聴覚が捕らえて認識した瞬間、俺は管理人室から飛び出していた。  エントランスのガラス戸を、音を立てて開け、ポーチの向こうにいる小さな人影を目指して駆け抜け、その名を叫ぶように呼んだ。 「ハル!!」 「潤くん!」  外門の鍵をもどかしく開け放って、門柱のインターホンのそばに佇んでいた小さな人影――ハルを、俺は思いきり抱き締めた。ハルも、俺を抱きしめてくれる。  お互いを抱きしめ合ったまま、俺とハルはうわ言のように互いの名前を呼び合っていて、そして泣いていた。 「え? ハルくん? なんで?」 「晴喜、なんですか?」  俺の後を追って出てきた大ちゃんとユキナさんが困惑気味に俺らの抱き合う姿を見ている声を聞きながら、俺らはしばらく抱き合っていた。  ――ハルに、また逢えた…… 夢であってもいいから、今はこの出来事が何より嬉しかった。  ハルは、あの春の夜の時のように着の身着のままの姿ではなくて、今度は大きなキャリーケースと、子ども用にしては大きめのリュックを背負って、そして子ども用のコートを着てメゾンに現れたんだ。  ひとまず寒いから部屋の中に入ろうと大ちゃん達に促されて、俺らは涙でぐしゃぐしゃな顔のまま管理人室に戻る。  ハル用の食器はまだちゃんと残していたから、食器棚から当たり前のようにユキナさんはハルが使っていたマグを取り出して、大ちゃんがハル用にホットミルクを作り始める。  俺の膝に乗せたハルは、ここにいた時よりも少しだけ重たくなっている気がした。  涙が落ち着いたハルに、「久しぶりだね」と、ユキナさんが言うと、ハルは少し照れ臭そうにうなずく。  こんな真冬の夜更けに、なんでここにまた子どもひとりで現れたのか、その理由が知りたかったけれど、俺も大ちゃん達もどう聞き出していいかわからずにいた。  その内にホットミルクができて、はちみつをたっぷり混ぜてやったのをハルに出してやると、ハルは嬉しそうに受け取る。  数回ふうふうと息を吹きかけて冷まして、ゆっくりとふた口ほど飲んで、「おいしい」と笑うハルの笑顔に、俺らはすごくホッとした。 「ハル、どうやってここまできたの? ママやパパは?」 「んとねぇ、あのね、潤くんたちに、おてがみわたしなさいっていわれたの」  お手紙? と、俺らが問うと、ハルは、さっきまで背負っていたリュックの元に駆けて行って、一通のA4サイズくらいの茶封筒を取り出して大ちゃんに差し出す。  封筒の中身を取り出してみると――出てきたのは、ハルの戸籍謄本と思われる書類だった。  これは……と、俺と大ちゃん、ユキナさんが顔を見合わせていると、ハルが、「これあったら、ハル、メゾンの子になれるんでしょ?」と、言う。  たしかに、俺らは以前ハルを養子縁組するにあたって、ハルの戸籍謄本を取り寄せようとしていた。  でも、ハルの親がなかなか話し合いに応じてくれないままハルの母親がハルを連れ帰りに現れて、手続きはそこで停まったままになっていたのだ。  これがあるということは、ハルを養子に迎えられるということになるということだ。  しかしそれは同時に、ハルの母親が、彼の養育を正式に放棄するつもりだということになる。  そのことを、ハル本人はわかっているのだろか――そんな俺らの複雑な胸中を払拭するかのように、ハルは満面の笑みでこう言った。 「ハル、ママとばいばいして、メゾンの子になるって言ったの」 「えっ……ちょ、ハル……それってどういう……」 「晴喜、ママは、メゾンの子になっていいと言ったんですか?」 「うん。だってママ、あたらしいおうちはママとあたらしいパパとあかちゃんのおうちだからって言ってたから、じゃあ、ハルはメゾンの子になっていい? って言ったら、いいよ、って言ったの」  俺らは、言葉が出なかった。幼い口から伝えられた、あまりに残酷ないきさつに、下手な慰めなんて無意味なことを知っていたからだ。  ユキナさんは口元を抑えて目にいっぱいに涙を浮かべていて、大ちゃんの眼も真っ赤になっていて、そして俺は、ただ黙って、ハルを抱きしめるしかできなかった。  腕の中で、ハルが、「ハル、いい子だから、泣かなかったよ。えらい?」と、やたらに明るい――でも、どこか震えている――声で言うものだから……俺はただただずっと、ハルを強く抱きしめていた。  こんな再会を望んでいたんじゃない。こんな、彼がより一層傷ついた状態で会いたかったわけじゃない。  勝手に置去りにして、勝手に連れ戻して、また勝手に捨てて……あの母親にとってのハルは、一体何なのか、問おうにも、もう顔を見るのも嫌だったから、もう俺は何も考えないようにした。考えるだけ、憎しみばかりが増すから。  俺の視界が滲んで滴っていく。頬を伝うしずくの感触がひりひりとして痛いのは、きっといま腕に抱く彼の痛みが伝わっているからだろう。  ――神様って、どうしてこうも残酷なやり方でしか願いを叶えてくれないんだろうか……素直に喜べない事態に、俺は何を言っていいのかわからない。 「――晴喜」 「なぁに?」 「あなたはとってもいい子です。それにもう誰も、ここでは泣いているあなたを悪い子だなんて言いません。たくさん、泣いて良いんですよ」 「……いいの?」  もちろんです、と、大ちゃんが涙交じりの声でうなずいた途端、腕の中でハルはいままで聞いたこともない声を張り上げて泣き出した。母親の名前とも、叫びとも悲鳴とも取れない声をあげながら。  これまでの苦しいことや悲しいこと、寂しいことのすべてを吐き出すように泣きじゃくるハルを抱きしめながら、俺も泣いていた。  嬉しいはずなのに痛みしかない想いを抱く、聖夜の奇跡をただ受け止めながら。
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