*20 回り道した願い事が叶うということ

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*20 回り道した願い事が叶うということ

 ハルの母親がハルの親権を放棄して、代わりに大ちゃんとユキナさんが親権を得てハルを養子に迎えてメデタシメデタシ……と、簡単にならないのが現実というものだろうか。  クリスマスイブに再びメゾンに、今度は身の回りの物一式を持ってハルは現れた。  ハルによれば、メゾンまでは母親に送ってもらったそうなんだけれど、だからって大ちゃん達に会って挨拶をしていくようなことをしないのがあの母親らしいとも言えた。そして今度も挨拶の手紙の一枚もない。  だけど、養子縁組に必要なものが揃いはしていたので、あとは家裁に行って手続きをして、申請が通ればいい――はずだった。 「は? いまさら俺の子だって? 舐めてんのか、その親父」  先月分の家賃を払いに来た賢さんが吐き捨てるように言う言葉を、俺は否定することなく聞きながらコーヒーを飲んでいた。  バタバタしたクリスマスと年末年始を過ぎてすぐに、例のハルの父親――正確には、気まぐれに時々経済的に支援していただけの、名ばかりの養父であることが、父親の欄が空欄の戸籍謄本からわかったんだけれど――が申し出てきたのだ。  そしてやはり、ハルの父親……気まぐれな養父は、大ちゃんが以前言っていた通り、とある市議会の議員で、ハルの母親はその愛人関係にあったんだろう。  いまのいままで我が子として認知すらしていなかったくせに、養子縁組が本格化し始めたらまたもや親権を主張し始めた養父の態度に、賢さんは怒っているんだ。  もちろん、俺も、大ちゃんもユキナさんも、事情を聴いた聡太さんでさえも怒りまくっていて、家裁や児相を挟んで応じられないという話をしている最中だ。  養子縁組をするにあたっての審査で大ちゃんとユキナさんは養い親に適格だと言われてはいるんだけれど、ひとつだけちょっとネックになりそうな点があるらしい。 「ネックになるって……なにがあんだよ。血も繋がっていない、そんな後出ししてくるような親父よりかダイとユキナの方が何百倍もまともだろうがよ。なーにが議員様だよ」 「うん、まあ、俺もそう思うんだけど……その……経済力がってとこで向こうが食い下がって来てるんだって」 「はあ? 金にもの言わそうって言うのかよ。ますます最悪だな、そいつ」  賢さんの言う通りではあるんだけれど、むこうは以前もハルを金銭と引き換えに引き取りたいとか言い出してきたようなやつだから、こうなるのも妙な納得がいってしまう。  べつに大ちゃんとユキナさんが経済的に不安定なわけではないけれど、ハルの養父というその男は、自分は議員をしているから、社会的に信用度も高いし、経済的に安定しているのだと言っているらしい。  だけどハルは親許にいる間、養父の意向で、認知されない上にお受験対策としてお受験に強くて有名な幼稚園にかなり無理して通わされていたらしく、そういう負担とかもあって、あの母親がハルの養育を放棄したということも明らかにされた。  そんな事情もあって、あとは家裁から許可が下りればいいだけなのに、一応ハルはメゾンにいるけれど、まだ正式に養子に迎えられていない状態だった。  メゾンにはほぼ連日養父からハル宛てのプレゼントらしきものが届くんだけれど、ハルはそのどれにも手を付けていない。「いままでプレゼントとかしてくれなかったのに、いきなりしてきてこわい」というのがハルの素直な気持ちだったからだ。  電話も毎日のようにかかってきて、ハルを電話口に出せと留守電が入っていて、すっかりハルが怯えてしまっている。 「警察とかに言ったのか?」 「一応、ストーカーに近いから、相談はしてる……勝手に電話番号調べられてかけてきたりしたこともあるから」 「ったく……胸糞悪いやつだな、マジで……」  賢さんは苛立ちながらタバコを咥えて、「吸っていいか?」と、言い問う俺に目で訊いてきた。  どうぞ、というように俺がうなずくと、賢さんはタバコに火をつけて、大きく息を吐いた。 「んで? あいつはどこ行ってんだよ」 「その、親父のとこ」 「はあ?! どういうことだよそれ」  ダイニングテーブルの椅子から立ち上がらんばかりに驚いている賢さんに、俺は事情を説明することにした。  ハルの養父がハルの親権を今さらに主張してしつこく食い下がってきたので、家裁で大ちゃんユキナさんと、その養父とで話し合いを持たれることになった。  話し合いの内容は、要はどちらがハルの養い親になるかっていう親権の争いなんだけれど、何故かそこにハル本人も同席させろという。  オトナと大人の話し合いという名の争いの場に五歳になったばかりのハルを連れて行くのはどうなんだと思ったんだけれど、どうしても向こうが連れて来いと言って聞かなかったらしく、渋々の出席だった。 「で? あいつを出席させて、どうするっつーんだよ」 「わかんない……もしかしたら、情に訴えたりするのかもしれない……」  情で訴えると言うか、物で釣るというか、兎に角姑息な手段に出るかもしれないことは想像に難くない。  「……最悪じゃねーか」と、賢さんは顔をしかめ、俺もうなずく。 「俺だって、行かせたくなかったよ……でも……ハルが、行くって言うから……」 「は? あのチビ、自分からそんなこと言ったのか?」  無理に行かなくてもいいと俺も大ちゃん達も言ったんだけれど、ハルは頑として行くと言って聞かなくて、とても五歳児とは思えない真剣な顔つきで、「パパにおはなしする」と言った。俺よりもはるかに覚悟を決めている表情で。  そこまで俺がぽつぽつと話すと、賢さんはただ大きく息を吐いて「……あいつは、ただの泣き虫なチビじゃねーんだな……」と呟いた。 「うん、そうだね……俺らが思ってるより、ずっと、強くて賢い。だから……俺の前では、せめて年相応に甘えて欲しいんだ……」  まだたった五歳なのに、自分が生きていきたい場所を知っているハルは、ただおろおろとしている俺なんかよりうんと強くて賢い。  だけど――その分、俺の前では年相応に……いや、それよりもうんと幼くなる気がする。  わがままこそたまにしか言わないけれど、夜は引っ付いて眠りたがったり、暗がりを異様に怖がったり、俺と一緒にいることにこだわったり、そういうところが、すごく痛々しくて、愛しい。  まるで同じ年の頃の、誰にも甘えることができなかった自分を見るようで苦しくもなるんだけれど、同じくらい、その甘えたい気持ちを叶えてやりたくなる。もう充分、ハルは頑張っているから。 「じゃあ、帰ってきたら、目一杯褒めてやれよ。頑張ったな、って。そんで、たっぷり甘やかしてやれよ」 「うん……でも、帰ってくるかな、大ちゃん達と一緒に……」 「帰ってくるって。あいつの、晴喜の家は、メゾンだってあいつが決めたんだろ? 信じてやれよ」  賢さんが俺を真っすぐに見て言ってくれた言葉に、俺はうなずいて、そして改めてハルがメゾンを選んだことを想った。  冷めてしまったコーヒーを啜りながら、俺は大ちゃん達からの連絡を賢さんとただひたすらに待っていた。  またきっと、このアパートにあの幼い姿が現れると信じて。  どれくらい、管理人室でぼんやりしていただろう。冬の陽が傾いて鋭利に窓から射しこんでくるのを眺めていたら、手の中でもてあそんでいたスマホが突然震えだした。  それは着信で、相手は大ちゃんからだった。俺は慌てて画面をスワイプして電話に出る。 「もしもし?! 大ちゃ……」 『潤くーん! いまからかえるねぇ。おみやげ、なにがいい?』 「え……じゃあ、レーヴの、チーズケーキ……」 『わかったぁ! あ、ダイにかわるねぇ』 「もしもし? ハル?」 『もしもし、潤ですか? 今から三人で帰ります。遅くなるので夕飯は途中で食べていきますので、お風呂の支度をお願いします』 「え、あ、うん……」 『もう、大丈夫ですからね』  電話はそれきり切れてしまって、俺は通話を終了させた。まだ耳元に、甲高い幼い声が響いている。  ぼうっと立ち尽くしている俺に、賢さんが、「どうした?」と、心配そうに声をかけてきた。 「電話、何だって?」 「いまから、帰るって……」 「それで?」 「風呂、用意してくれ、って……」 「……で?」 「え?」 「え? じゃねーよ、晴喜は帰ってくんのか?」  ぼんやりしている俺に苛立つように賢さんがまくし立ててきて、俺はハッと我に返る。  ハルが、帰ってくる……メゾンの子として、ここに、今から。  ――もう大丈夫、そう、大ちゃんは言っていた。その言葉とハルのいつも以上にはしゃいでいた声が頭の中に響く。 「ハル、帰ってくる、って……大ちゃんが、もう、大丈夫、だって……」  現実になったことを声にして口にすると、じわじわと現実味を帯びてきて、俺は指先やつま先が痺れたようにふわふわと力が抜けていく。  実際、腰が抜けてしまって、俺はその場にへたり込んでしまった。指先が、震えている。 「潤?! お前が大丈夫か?」 「賢さん……ハル、帰ってくる、って……」 「おう、もうお前と同じ、メゾンの子じゃんか」  俺と同じ――賢さんの言葉に、俺の視界が揺れる。俺、ハルに出会ってから泣いてばっかりだ……いままでこんなに泣いたこと、なかったのに……そんなことが頭に過ぎって、途端におかしくなった。  自分の泣き虫ぶりに小さく笑っていたら、「よかったな、潤」と、賢さんが頭を撫でてくれた。俺はただ小さな子どもみたいにうなずいて、瞬くたびに滴っていく目許を拭う。 (――ハルが、メゾンの子として帰ってくる……もう、大丈夫……)  すごく回り道をしたけれど、どうにかやっと叶えてもらえた願いの帰還を待ちわびながら、俺はメゾンの共同風呂にアツアツの湯を張った。
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