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*21 十二回巡った季節ののちに見えてきた気持ちの正体は
「パパのとこにはいかない。ハルのおうちはメゾンなの。ハルは、メゾンの子になるの」
あの冬の日、ハルはそれまで声を聞くことすら怖がっていた相手――自分の育ての親ということになっている養父に、はっきりとそう言い放ったんだと、大ちゃんが言っていた。
家裁での話合いの際、ハルの養父だという男は、一方的にこちらが勝手にハルを連れ去ろうとしただとか、自分の方が社会的に信用度が高くて、経済的にゆとりある環境にあるからハルに不自由させないとか、兎に角自分にこそハルの親権があると言いたげなことを主張していたらしい。しかも、あんなに隠していたくせにいまになって自分は議員であるからとか何とか言って。
でも、生まれてから一度もハルの存在を我が子として認知して来なかったことや、ハルが母親から放置された際もすぐに捜索願を出したり、連絡をとったり保護しに来たりしなかったことなどを裁判所から指摘され、養父は黙り込んだそうだ。
それでなくとも、ハルがメゾンに来る前もなにひとつ育児に積極的に参加して来ず、むしろ母親のネグレクトを加速させるような言動をとっていたことも明らかになって、いよいよ養父は立場の悪さが浮き彫りになる。
これ以上事態を大きくしたくなかったのか、養父は親権を主張することをそれ以降言わなくなり、連絡も途絶えた。
ハルは母親から大ちゃんとユキナさんに親権を移される形として養子縁組することとなって、正式に俺と同じ遠藤家の子どもとして迎えられたのだ。
俺が十八に、ハルが六歳になる春に、ハルは飯塚晴喜から遠藤晴喜になった。
――それから、十二年の時が経った今、ハルと俺は相変わらずメゾンの一〇一号室に一緒に暮らしている。
「ハぁル、じゅーん、あさだよぉ、おきてぇ」
部屋の入り口のドアを、力任せに叩く幼い声がする。俺らはそれぞれのベッドの中で声に叩き起こされるようにもぞもぞともがきながらゆっくり寝返りを打つ。
枕元に置いたスマホの時計は朝の七時半を表示していて、俺とハルが起きなくてはいけないぎりぎりの時間だった。
「ハルー、起きなー、七時半だってー」
「んー……あと五分……」
往生際悪くまだ惰眠を貪ろうとするハルにもう一度声をかけようとしたその時、入り口のドアが勢いよく開く音がした。続いて、小さな足音が駆けてくる。
「もぉ! おきてっていってるでしょぉ!」
ダイニングから寝室に続く引き戸も勢い良く開けて現れたのは、細い三つ編みが揺れる小さな女の子だった。母親のユキナさん譲りの勝気な目許がきゅっとつり上がって俺らを見ている。
「起きてるよぉ、リン。おはよー」
「ハルがおきてないよ! ハぁル、おきて!」
リンはまだベッドの上で蹲っているハルに向かって駆け寄って、丸くなっている背中を容赦なく叩く。
ぺちぺちと叩いてくる小さな手のひらの攻撃に、「ああ~、参った~」なんてハルはくすくす笑っている。
観念したようにハルが起き上がると、リンはその胸元に飛び込むように抱き着く。
「おはよぉ、ハル! 潤!」
「おはよう、リン」
「パパがね、りんごのジャムつくってくれたの。はやくたべよう」
リンがぐいぐいと俺とハルの腕を引っ張るので、寝癖も整えないままに俺らは管理人室に向かった。
ハルがメゾンの子になってから何年か経って、大ちゃんとユキナさんの間に生まれたのがリンで、俺にとっては血縁上ハトコにあたるけれど、戸籍上はハルと同様兄妹だ。
我が子ほど年の離れている妹は毎朝こんな感じに俺とハルを起こしに来る。毎朝のことだけれど、四歳児って朝からテンション高くてすげぇな……と、感心してしまうアラサーの俺である。
「今日の潤は遅番ですか?」
「ああ、うん。だから夕食は要らないよ」
俺の今日の予定を、おかわりのコーヒーと引き換えにするように告げると、大ちゃんは、「承知しました」と、微笑んだ。
高校卒業後、俺は大学の教育学部に進んで児童福祉の勉強をして、いまは児童福祉の施設の職員をしている。
ハルと出逢ってから、ずっと俺やハルみたいな親と一緒に暮らせない子どもに何かできないかって考えることが増えたのがそもそものきっかけだった。
子どもが、特に何かしら複雑な背景を背負ったり抱えたりしている子たちが、俺やハルに大ちゃん達がいてくれるみたいに、寄り添ってくれる人たちに思い切り甘えたり頼ったりできるようになればいいのに、と考えていたから。
そういった自分の経験や想いを活かして、自分たちのような子どもに寄り添える仕事に就きたいと考えて選んだ職業がこれだ。
泊まり込みとか、面談とかいろいろあってかなり大変だけれど、少しでも子どもに寄り添えているなら何よりだなとは思いながら日々仕事をしている。
「晴喜は?」
「ぼくはリュセルのバイト」
ハルは、いま高校二年生で、もうすぐ十七になろうとしている。ハルと出逢った頃の俺の年頃になって、あんなに小さかったのに、いまじゃ並んでも背がそんなに変わらないくらいに背が伸びた。
リンの誕生前後からハルはユキナさんの代わりにカフェ・リュセルで手伝いをするようになった。
主に注文の料理や飲み物を運んだりテーブルをきれいにしたりするくらいらしいけれど、まあまあ頑張っているみたいだ。
ひょろりと薄っぺらなハルの姿は、昔のような頼りなさはだいぶなくなってきた気がする。くるくると愛らしかった目許は涼しげなクールな表情を見せるようになった。
きれいな顔に成長したなぁ、なんてついうっかり見惚れてしまう。
「……なに?」
しみじみと成長ぶりに想いを馳せていたら、軽くハルからにらまれてしまって、俺はちょっと大げさに肩をすくめる。
あんなに俺の後をついて回っていたのに……最近じゃかなり素っ気ない。ちょっと目が合っただけでこんなだもの。
だからと言って、保護者である大ちゃんやユキナさんにも素っ気なかったりするのかというと、そうでもないみたい。昔と変わらない、聞き分けがよくていい子のハルのままだし、リンに対してもいいお兄ちゃんぶりを発揮している。
ハルがメゾンに来てから十二年、途中、年相応に反抗期らしいものもあったようななかったようなこともありつつも、だからと言って大きなもめごとになるようなこともなく過ぎてきたと思う。
多少、生意気な口を聞いてくるぐらいで、夜遊びするとか、学校に大ちゃん達が呼び出されるとかなんてことはなかった。
ただちょっと最近、俺に対してつっけんどんな感じなだけで。
「って言っても、それがお前は気にくわないんだろ?」
「気にくわないって言うか……寂しいなぁって思って……」
「まあ、晴喜ももう十七になるんでしょ? そんなもんだよ」
「かなぁ……」
仕事が早番だったある日、俺は賢さんと聡太さんと一緒に呑んでいた。
聡太さんが作ってくれたハイボールを飲みながら俺が溜め息をついて愚痴っていると、賢さんと聡太さんが苦笑して話を聞いてくれる。
数年前に賢さんと聡太さんの所属するバンド・コシームは念願のメジャーデビューを果たして音楽一本で食っていけるようになった。
それと同時にふたりはメゾンを出て、メゾンがある街から急行で二駅ほど行った街にあるマンションで一緒に暮らしている。
ふたりの忙しい合間の休みに、タイミングが合えばふたりの部屋を訪ねたりして一緒に酒を飲むようになって、こうして俺の愚痴を聞いてもらっている。
俺の愚痴というのは、だいたいはハル絡みだ。最近素っ気ないとか、大ちゃん達と態度が違いすぎる、とかそういう感じの愚痴。
「いままでがいい子過ぎたんだよ、晴喜は。ようやく年相応になったんじゃない?」
「反抗期らしいもんもなかったよな、ちょっと生意気な口聞くぐらいで」
「べつに素っ気ないって言っても、ごはんとかは一緒に食べてたりするんでしょ?」
「うん、まあ……でもさぁ、ちょっと前まで、“潤くん、潤くん”って言っていっつも引っ付いてたのになぁ……って思ったら……」
「お前が義弟離れできてないだけだろ」
「そうそう、潤は晴喜に過保護すぎるんだよ」
賢さんに苦笑されて、聡太さんに呆れられて、俺は返す言葉がなかった。
ふたりの言うとおり、俺は、血の繋がらない、年の離れた義弟ということになっているハルのことがどうしようもなくかわいくてしかたがない。過去に無理矢理引き離されたこともあったから余計に、一緒にいられる有難みを感じるのもあるんだろう。
それに加えて、俺はハルが幼い頃からハルをただの弟分という存在以上に見てしまうところがある。
自分の過去と重なるところがあるからとか、それゆえに彼に感情移入してしまうからとか、そういう事情を抜きにしても、俺はハルを愛しいと思っている。
この感情がいわゆる恋愛感情によるものなのか、家族愛の過剰なものなのか、この十二年間考えているけれど、よくわかっていない。
わかっていないと言うか……決着をつけてしまうのが怖いのかもしれない。どっちかに振りきってしまうと、振り払われた感情が行き場をなくしてしまう気がして。
そんな話を賢さんと聡太さんに相談してみたかったけれど、もしふたりに眉をひそめられてしまったらと思うと――俺は、やっぱり怖くて言えなくなってしまう。
だからいまは、ただ義弟離れができていない義兄のふりをするしかないんだ。
言いようのない感情を、ハイボールごと飲み干していると、テーブルの上に放り出していたスマホが震える。表示されていたのは、ハルからのメッセージだ。
メッセージだとハルは幾分素直で、昔の彼を感じさせて嬉しくなってしまう。
俺がスマホを手に取って、つい頬を緩めると、「おうおうバカ面兄貴」と、賢さんから苦笑された。
「晴喜から? なんて言われたの?」
聡太さんが有無を言わさず俺のスマホを覗き込んでくるのを、俺が腕をあげて除けると、その手をつかまれて引寄せられた。
「“いまどこ? 先に寝ててい?”……って、なんだよ、ラブラブじゃんよ」
「どこが素っ気ない義弟だよ。帰り待ってるとかこいつより可愛げあるぞ」
メッセージを読み上げた聡太さんと、それを聞いた賢さんからそれぞれツッコミを受けてもにやけてしまうのは、聡太さんの言葉通り、何のかんの言いつつもハルとは“ラブラブ”とも言えるからだろうか。
メッセージでならこうやってちょっと素直なところあるんだけれど……面と向かってだと目も合わせてくれないんだよなぁ、最近のハル……見ていただけでこの前の朝みたいに軽くにらんできたりするし。
「なんだよ、俺だって梶井の帰り待ってるじゃんか」
「酒飲んで、ソファでガーガーいびきかいてんのは待ってるって言わねーよ」
俺が軽くへこんでいるのも構わず、言い合いという名のじゃれ合いをふたりは始める。
羨ましいなぁ……というのが、正直なところだ。こんな風にハルとじゃれ合うように会話したのって最後はいつだっただろう? 思い出せないくらいに前なのは確かだ。
聡太さん達が言うように、ただハルが年頃のせいなんだろうか。それなら、いつかまた昔みたいにフツーに接してくれるようになるんだろうか。
もし、年頃のせいだったとして、ハルがまた前みたいにフツーに話しかけてくれるようになったなら……俺は、ハルとどう関わっていきたいんだろう。
大切にしたい気持ちは変わらないのに……それをそのままハルに向けてもいいのかがわからなくなっている。
それに、ハルに対しての俺の気持ちの向け方の答えがはっきりと出ていないこの状況で、ハルから向けられる気持ちに棘がある気がするのもちょっと辛い。
「だーいじょうぶ、どうにかなるって」
「そうそう。お前らの絆は頑丈だから」
ほろ酔いの聡太さんと、酒を飲んでいないはずなのにほろ酔いのように機嫌がいい賢さんからそう言われたけれど、俺はなんだか気が晴れないままだった。
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