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*23 苦い記憶とトラウマに嗤われる悪夢
気づけば俺は、前を歩く背中を追いかけていた。
桜並木が延々と続く道には桜が舞い散っていて、顔中に吹きつける桜吹雪の中をかき分けるように俺は懸命に歩いている。
前を行くのは、明らかにハルだ。こちらを振り向くことがなくても、ずっと傍で見てきた背中だから、遠目からもそうだとわかる。
ハルはいまと同じくらいの背格好なのに、俺は――何故か、親に捨てられた三歳になったばかりの姿だった。
十七歳間近の少年の歩幅と、三歳児のそれはあまりに違う。しかもどうやらハルはかなり速足で歩いているようで、まったくその距離は縮まる気配がない。
――待って! ハル、待って!
幼い声のままの俺が叫ぶように呼び掛けても、ハルの足は緩むことも停まることもない。
こちらを振り返るような気配もなくて、二人の間はどんどん開いていくばかりだ。
桜が、雪のようにふぶいている。まるで俺の行く手をはばむように。
――ハル! 待って! 待ってよ!
俺が叫んでハルを呼ぶほどに、吹きつける桜吹雪が強くなっていく。
口の中にも桜の花びらが飛び込んでくるほどの猛烈な桜吹雪は、どんどんと俺を押し留めるように吹きつける。
ぞっとするほど真っ白な花びらが俺の目の前とハルの背中を覆っていく――
息が詰まりそうなほどの花びらと風に、俺はその場にしゃがみ込みたくなるほどの恐怖を覚えた。
恐怖心から思わず目を瞑って立ち止まると、ゆるゆると吹雪は止んだ。
そよ風ほどになったのを見計らってそっと恐る恐る目を開けると、俺の前を歩いたはずのハルの姿はなくて……その代わりに、もうずっと忘れていると思っていた人物が立っていた。
ゆるいパーマのかかった中途半端に長い、頭頂部が黒い茶髪。肌は雪のように白くてきれいで、薄い唇に無精ひげに咥えタバコ。
きつくて細い目が、俺を小ばかにして嗤うように見おろしている。
――おとう、さん……?
もうずっと、口にすることがないだろうと思っていた名前をこぼすように呟いた瞬間、目の前の彼は、俺の父親だったその男は、片頬をあげて嗤った。
『お前がしあわせになれるとでも思ったのかい? バカだねぇ……なれるわけないだろ。おまえはずーっと、“よその子”なんだから……』
――……違う! 俺は、大ちゃんとユキナさんの子になったんだ! もう、よその子なんかじゃない!
『どうだろうねぇ? そう思ってるのはお前だけじゃないの?』
――違う! 俺はメゾンの子だ! 大ちゃんとユキナさんの……
『じゃあ、お前が勝手に連れてきたあの子はどうなんだい? お前のせいで親から捨てられたあの子は』
――え……?
父さんの言葉に、俺は凍り付く。彼が言っているのが、ハルのことだとすぐにわかったからだ。
俺のせいで、ハルは親に捨てられた……その言葉は、ずっと、ハルが正式にメゾンに引き取ることを決めてから密かに俺が抱えていたハルへの罪悪感だ。
俺がハルをメゾンに連れてきた経緯があったから、ハルは、母親の新しい家庭には連れて行ってもらえなかったんじゃないか。
俺のせいで、俺に出会ってしまったせいで、ハルは……親から捨てられた――俺が、自分の過去とハルを同一視してしまったばっかりに。
ひた隠しにしていた後悔が頭からすっぽりと俺を呑み込んでしまって、指一本動かせないほど呆然として俯いていると、せせら笑う父さんの声が辺りに響く。
『バカな子だねぇ、本当にお前はバカな子……向こう見ずで、考えなしで、俺にそっくりだ』
骨っぽくて長い指が、やけにやさしく俺の頭を撫でる。冷たい指の感触は、たちまちに俺をあの棄てられた春の日に戻してしまう。
俺は、やっぱり何にもできないあの頃のままなんじゃないだろうか。
大人になって、仕事もして、それなりに責任を負ったり稼いだりするようになってきたけれど、やっぱり全然大人になり切れてないんじゃないだろうか。
もうあの頃よりも充分大きくなったから、ハルをしあわせにできると思っていた。思い込んでいた。
それなのに、まだまだ全然、ハルの気持ちすら解ってやれていないんじゃないだろうか。
――ハルは、メゾンに来て、しあわせじゃないの? 俺のせいで、しあわせじゃないの?
ケタケタと嗤う父さんの声が耳について、離れない。耳を塞ぎたいのに、それすらできない。
細い冷たい指先が、いつの間にか涙が伝っている俺の小さな丸い頬に触れる。甘ったるい香水のにおいがする、父さんの指先。
『ヒトをしあわせにしてやろうなんてね、思い上がりだよ。ちょっと力を持つようになったうぬぼれ屋のすることだよ。お前は馬鹿だから、そんなこともわからないんだな』
違う、そんなことない、俺は、俺はきっとハルをしあわせにできるんだ……そう、叫びたかったのに、声が呑み込んだ桜の花びらに塞がれたように出てこなかった。
父さんが嗤う。声もなく泣く俺を憐れむように、撫でながら。
桜が、再びすごい風に乗って舞い始めた。
桜吹雪に包まれるように父さんの姿が見えなくなって、やがて俺に触れていた冷たい指も消えてしまった。
ただ低いけれど神経に障る嗤い声だけが、辺りに響き渡っていた。
俺は、その場にうずくまって、叫ぶようにハルの名を呼んだ。嗤い声を打ち消すようにして。
「――ハル!!」
叫ぶ勢いのままに飛び起きると、そこはいつもの寝室で、遮光カーテンの隙間から真新しい陽射しがひと筋射し込んでいた。
隣のベッドを見ると、すでにハルは起きているみたいで、姿がなかった。
庭の方から、リンが遊びまわる声が聞こえる。リンの声の狭間に、聞き慣れた声――ハルの声が聞こえる。
カーテンをそっと開けると、やっぱり庭でリンとハルが遊んでいた。ハルは、いつもと変わりない笑顔でリンとごっこ遊びをしているみたいだった。
変わりない、無垢で天使のような笑顔に、俺は胸がきゅんとするのを止められない。できることならこんな物陰みたいなところからじゃなくて、昔みたいにゼロ距離な位置で存分に眺められたいいのに。
秋の陽に透けるような肌とクセのないきれいな髪に触れたくなる衝動が無意識に湧いてしまうのはどうしてなんだろうか。これは、彼を義弟だと思って愛でたいだけなんだろうか。
カーテンのついでに窓も開けると、やわらかな小春日和のほんのりあたたかな陽射しと空気が頬を撫でた。
「あ、潤だー。おはよぉ!」
リンが一〇一号室の掃き出し窓を開けて佇む俺に気づいて、手を振ってくれた。それに倣うように、ハルもこっちを向いたけれど……すぐにスッと視線を外した。
しゃがんで俯いたショートボブの髪の陰に隠れて、すずやかになったハルの目許も表情も見えない。
呼んだら、顔をあげてこっちを見てくれるだろうか。一瞬考えたけれど、俺はリンに手を振り返して、そしてまた部屋の奥へ引っ込んだ。
明るい庭の景色から薄暗い部屋の中に目を移したら、目の前が真っ暗になった。ちかちかと六等星のような光が瞬いて、視界を塞ぐ。
――潤くん、目がまっくらだよ。見えないよ。潤くん、どこ?
ハルがメゾンに来たばかりの頃、こうやって暗転する視界に戸惑って立ちすくむことがよくあった。
そういう時、俺はそっとハルの小さな手を取って、こう言った。
(――大丈夫。俺はここにいるよ。数を数えるんだよ。一……二……三……)
目がうす暗い中に慣れてくるまで、ハルはぎゅっと俺の手を握りしめていた。決してどこにも行かないように、と。
もう、ハルは俺の顔を見てもくれない。話もしてくれない。まるで、俺をひとり置き去りにしていった父さんのように。
(“――ヒトをしあわせにしてやろうなんてね、思い上がりだよ。ちょっと力を持つようになったうぬぼれ屋のすることだよ。お前は馬鹿だから、そんなこともわからないんだな”)
夢の中での父さんの言葉が頭の中をぐるぐると回って、苦しい……俺は寝室とダイニングの境目で胸を押さえてうずくまった。
いっそ泣ければ良かったのだろうけれど……涙が出るにはあまりに苦い夢の記憶で喉が詰まっていて、嗚咽しか出ない。
「……ハルと、しあわせになりたいんだ、俺は……それだけ、なのに……」
誰に言うでもなくこぼしたうめき声は、独りぼっちの部屋の影にひっそりと転がる。
背後の庭では、幼い妹と、それを見守る俺の大切な義弟の笑い声が聞こえていた。
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