プロローグ

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プロローグ

●登場人物/便利屋  東京某所。  ある芸能事務の一室。  一人取り残された俺は、途方に暮れていた。 「ったく……いっつも俺に無理難題を……」  真っ白に近いA4サイズの資料に目を落として、俺はまた大きく溜息を吐いた。 「ここで考えても、気が滅入る……」  資料と呼べるほどしっかりしたものでは決してないそれをクタクタのバッグに押し込んで、事務所を出る。  外は、まだ肌寒い。  が、ひらりと。 「え……?」  再び溜息を吐きそうな俺の目の端に、薄紅の花びらが舞った。 「桜……もうそんな季節か」  見上げた先にふっと頬が緩むのを感じて、俺は歩き出した。  こういう時に必ず足が向くカフェがある。  自分がカフェなんて、と俺は自嘲気味に笑う。  タクシーを拾っても良かったが、歩きたかった。  頭ん中を少し整理したかった。  三十分ほど歩いて、そこは見えてきた。  ドアを開ければ、俺を見た店員が愛想良く笑い、端の席を案内してくれた。  俺はブレンドを頼んで、パソコンをテーブルに置いた。  この席だと後ろから誰かに見られる心配はない。 「さて……どうすっか」  ただでさえ自分の劇団を解散し、頭を抱えていた俺に、あの女は言った。  秋品事務所の新たなプロジェクトに参加しないか、と。 『はい?』 『あんた、今やることないでしょ?』    現状、舞台の仕事はすべてなくなった。  脚本、演出は特に。  今、俺に残っている仕事といえば、地方局の旅番組だ。  そんなタレントとしては魅力の薄い俺を誘ってくれるのなら、と二つ返事で参加した。  それが、苦難という愉快の始まりだった。  旅番組で長いこと俺を使い続けてくれる奇特なディレクターの紹介で、この事務所に入れたと言っても過言ではない。  それが数年前のことだ。  しかし、類は友を呼ぶとはまさにで、紹介された事務所のマネージャーのマオ・ライリーがまた、何と言うか。  一言で表すならば、変人。  失礼なことは百も承知だが、事実なのだから仕方がない。  今日だって。 『なぁんにも決まっていないから、あんたが決めて』 『……はい?』  ならば、新たなプロジェクトと言うのもおかしな話ではないか。  ちなみに、プロジェクトはもう一つ動いていて、そちらは役者達を纏めていた敏腕マネージャーが担当することになっている。 「いや、確かに今することねぇけどさ……」  未だに慣れないスマートフォンを手に取った。  が、誰にも連絡することなく、また置いた。  大きく息を吐き、俺は額を抑える。  もう一つのプロジェクトを動かしているあの男に聞いてみるべきか否か。 「ブレンド、お待たせ致しました」  カフェの店員が、優しい笑みでこのカフェおススメのブレンドコーヒーをテーブルに置く。  だが、今日はもう一つ何か置かれた。  桜の花を模った小さなチョコレートだった。 「これは、今度お店に置く予定の春の新作ショコラです。よかったら」 「あっ、どうも。頂きます」  俺が礼を言うと、店員はまた微笑んで席を離れた。  このカフェは同じ事務所の気難しくて綺麗な俳優が教えてくれた。  ここは前々から芸能関係者がよく利用しているためか、気遣いが丁度良いのだ。  店員が置いてくれたショコラを摘まむ。 「CHOCOLATE<ショコラ>……か」  俺は未だに慣れないパソコンに、思わず呟いたその文字を打ち込んでみたのだった。  ~Start~
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