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Introduction
今思えば、あれが運の尽きだった。
あの日、あの時、あの場所にさえ行かなければ。
大人ならばそんな後悔が先に立つことはないとこれまでの経験から知っているはずなのに、愚かにもその悔恨を何度も巡る。
自社ビルの地下にある資料室には窓がないおかげで澱んだ空気が充満していた。あからさまに健康に悪そうな埃っぽい空気を極力肺に入れないよう浅い呼吸でやり過ごしながら、過去の広報資料を探して棚を移動する。
広告代理店から求められた過去の契約内容とプロモーションに関するボツ案を探し始めて、数十分ほど。不意に開いた扉から流れ込む空気の揺らぎに顔を上げると、そのまま誰かが中に入ってきた気配がした。
『あの、私、ずっと豊川さんのこと好きで…』
安易に出しかけた顔を、即引っ込めた。
緊張に弱々しく掠れた声が一生懸命伝えるその告白は、どう考えても部外者の私が聞いていいものではない。
しかしここで自分の存在をアピールして水を差すわけにもいかず、かと言ってこのまま聞き続けるのは罪悪感でちりりと胸が痛む。
日本でも指折りの社員数を誇る会社だ。声だけで告白している女子社員が誰かまでは把握出来ないが、豊川という名前を聞けば、その相手が誰なのかは想像に易い。
『気持ちは嬉しいんだけど、ごめんね』
王子様然とした爽やかさを損なうことなく困った顔で笑うその表情には一縷の隙もない。震える指先に握りしめられた小さな桃色の便箋に詰まっているのは、恋の欠片。
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