鏡の国の人魚へ

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 新聞紙をちぎる。ちぎってちぎってまたちぎる。  雑に裂いた歪な切れ端には、大きな見出しの文字とどこかの偉いおじさんのハゲ頭が見切れている。  これはいつ発行されたものだろう。私はしゃがみ込んだままその小さな切れ端に詰め込まれた情報をまじまじと眺める。  数週間前か、数ヶ月前か、十年前だったりして。  十年前だったら私は四歳だから保育園の年中……いや、年少だっけ……なんて考えながら裏返すと、日付は先週の月曜日のものだった。それも超ローカルの地方版の記事。今年の花火大会から新たにメッセージ花火が上がるのでメッセージを募集中だとかなんとか。  なんだ、たった一週間前か、と一瞬ため息をつくも『花火大会』の文字に私はあの夏の日の羽ばたくような感覚を思い出して心が軽くなる。 「あっ、それ俺の分もくれ」  回想に浸りかけた背中に不意に声をかけられて私の体はビクッと硬直する。 「俺の新聞紙使い切っちゃってもう真っ黒でさー……ってあれ?どうした?おーい」  悠は固まったままの私の肩に手を置いて前後に揺らす。それが更に私の体の硬度を高めていく。  とはいえこのまま無視を決め込むわけにもいかないので私は目を瞑って小さく息を吐き出し、魔女の呪いで石化したみたいに硬くなった身体をほぐす。 「悠くん……そっちはもう終わったの?」  彼の方を振り向かないまま、手の中の新聞紙だけを見つめて絞り出したその声は自分の頭の中のイメージよりも低くて、その分だけ心は沈む。 「おう。外側の窓はもう終わったよ。残りはお前のとこだけだ。手伝ってやるからさっさと終わらせようぜ」  彼にバレないように浅い呼吸を繰り返してようやく落ち着いてきた私は、ゆっくりと立ち上がりさっきちぎり取ったばかりの新鮮なおじさんのハゲ頭を差し出しぎこちなく微笑む。 「じゃあこれ、お願い」 「おう」  彼はいつもの純粋な笑顔でそう言って私の手から新聞紙を受け取るとさっさと廊下に出ていく。 「こっちの窓、まだだよな?」  廊下からこちらを振り返りそう言うと、私の返事も待たずにさっさと教室の前方入り口になっているドアの窓に新聞紙をガシガシと当てて拭き始める。 「ほら、お前も反対側やれって」  彼に促されて私も新聞を片手に小走りでそちらに向かう。  同じ窓を教室側から、彼と向かい合わせに拭く格好になる。  六時限目が終わった午後三時半。ノルマのような退屈な授業を一日こなした生徒たちが浮かれて騒ぐ下校前の掃除時間。  学校全体が浮ついた賑やかな空気の中、硝子の窓一枚隔てて向かい合い一心不乱にお互いの汚れを拭き合うような私達。 「あっ、そこ汚れてる。拭いといて……ってお前届くか?」 「届くよ!」  中学に入り私よりも背が伸びた彼が挑発するように窓の上の方を指さすので私は意地になって手を伸ばす。 「あー違う違うもっと右……いやそっち左!右だって右!」 「こっちから見たら右なの!」  私が叫ぶと彼は愉快そうに笑う。釣られて私も笑う。  その笑顔は数年前と何も変わらない。声は低くなったし、体も大きく逞しくなってしまったけれど、やっぱり彼は彼のままだ。  柿ノ木悠。小学六年生の頃、本当に毎日のように遊んでいた友達。中学になりクラスがバラバラになってしまい、お互い別の友人ができて昔のようには遊ばなくなってしまっていたけれど、三年になりまた同じクラスになった彼は、昔と変わらないその笑顔でまた私を誘うのだった。 「こっちは大丈夫か?お前の方から見て」 「ええと……あっ、右下の方ちょっと汚れてるかも」 「こっちか!」 「それ左!」  私のツッコミに彼が声を出して笑う。昔何度もやったようなくだらないやりとりに笑う彼の顔が硝子越しに眩しい。  身体が変わっても何も変わらない彼に、小さな身体のまま心だけが変わってしまった私。  どれだけ笑っても昔のままではいられない事実がこんなにも苦しいだなんて知らなかった。 「ガラスの汚れってなんで反対側からしか見えないんだろうな。めんどくさいよな」  黒くなった新聞紙を広げて裏返しながら彼が呟く。  私は曖昧に返事をしながらそんな彼の伏せた顔を盗み見ていた。 「悠さー。暇ならこっちの掃除手伝ってよ」  廊下側で女子生徒が甘ったるい喋り方で彼に話しかけた。 「いやいや、どう見ても暇じゃないだろ今の俺。ほら見ろよこの新聞紙の黒さ」 「ちょっ、こっち向けないでよバカ。汚いなあ」  もー、と笑いながらその手でなんの迷いもなく彼の肩に触れる彼女は、私たちと同じクラスの鈴原澪だ。  長くて緩くウェーブした髪をだらっと下ろしてちょっと舌足らずに喋る彼女は、その整った顔立ちと気の強さでこのクラスの女子の頂に君臨している。そして、彼女が悠にだけ向ける視線の熱っぽさと声色の甘さは、外から見ている人間が恥ずかしくなるほど明らかだった。  硝子を隔てた向こう側の世界で笑い合う二人を、視界の真ん中に無表情に捉えながら黙々と汚れを拭き取るこの時間が果てしなく永い。  妬ましいと自覚すればその瞬間に全てが崩れていくような気がする。だから私は心の汚れを落とすように必死に新聞紙を擦り付ける。新聞紙はどんどんインクが滲んで黒ずんでいく。そんなことを考えている時点でもう妬んでいる事実にも気付いている。だけど私には妬む資格もないから。  悠はその誰に対しても分け隔てないおおらかな態度と、陸上部で鍛えた陽に焼けた大きな体と、そんな体に似合わない子供のような笑顔で男女ともに人気がある。そんな悠とクラスで一番目立つ鈴原澪は、誰が見てもお似合いの勝ち組カップルといった風に見える。  付き合ってはいないはずだが、何だか二人の間には誰も割って入ることができないような、他人を寄せ付けない雰囲気がある。と言うより、鈴原がそんな雰囲気を醸し出しているようにも見える。  彼女が悠に触れる手が、向ける視線が、言葉が、誰にも知れない刃となって私を刺してくる。  私はあんな風に彼という存在に気軽に触れることができない。  彼女が去り、また私の正面に立って何事もなく窓を拭き始める彼の手がほんの数ミリの硝子の向こうで私の手に重なる。  こんなに近いのに。触れることのできないその手が遠い。  ふと見上げた私の視線に気が付いて彼が変顔で応える。  その表情には意中の女の子を口説き落とすような、思春期の男子が女子と目が合った時の照れ隠しのような感情は当然になく、ただ私を笑わせることだけに徹したそのひょうきんな寄り目が可笑しくて、息ができなくて、息のできない私はまるで肺を持たない生き物みたいで、悲しくて、笑えた。    七月の雨は、感情の揺れで俄かに火照った私の心と身体とを冷やしていく。  透明なビニール傘を広げて一人歩く帰り道は自分の世界の孤独さを私に嫌というほど自覚させる。  この空模様ではグラウンドは使えないだろうけれど、雨の日の陸上部にも色々とトレーニング方法はあるようで、悠は放課後になるとすぐに部室へと駆けていった。最後の夏の大会を控えているため、一日たりとも無駄にはしたくないのだろう。陸上の話をしている時の彼の瞳は普段の陽気な雰囲気とは違う、一点だけを見据えた真剣さを湛えている。そんな私の知らなかった一面がまた私の胸の奥を焦がしていくことを彼は知らない。  以前、彼が空を飛ぶ姿を見た日がある。  あの日、試験勉強のために放課後の教室に一人残っていた私の瞳は、窓の外に翼を広げる彼の姿を捉えた。  夕暮れに染まるグラウンドの隅に置かれた分厚いマットとバー。悠がそこへ向けて斜めの角度から緩く弧を描き、弾むように大きなストライドで走り込む。踏み込みのライン手前で一瞬、力を蓄えるように深く折れた膝が次の瞬間には解放され、同時に彼の体はふわりと空へ舞った。その姿は引力の鎖から解き放たれ翼を広げて自由に舞う鳥のように私の目に映った。  彼の体が捻れてバーの上を通過し、背中からマットの上に落ちる。ほんの一秒にも満たないその瞬間がただ美しくて悲しかった。  彼の立つグラウンドの遥か上にある三階の教室。物理的には空へと近いはずの私の両足の底は重力に抗うこともなく床にへばりつき、制服は鎖のように私の全身を縛り付けていた。  開いていた窓から流れ込んできた風が机の上のノートを捲る。私は窓を閉めて再びペンを手に取り、要らない感情を追い出すように余白を数式で埋めていった。    家に着くと、まだ夕方だというのにお風呂が沸いていた。 「あんた傘下手なんだからどうせ濡れてるでしょ。先に入っちゃいなさい」  お母さんはそう言うと、玄関で靴を脱いでいた私にバスタオルを手渡してきた。  言われてみれば肩が冷たいし、髪も濡れている。私はお父さんへの挨拶を済ませると、そのまま脱衣所へと行き白い夏服のシャツとスラックスのパンツを脱いだ。  バスチェアーに座ってシャワーを浴びて身体を温めるとじんわりと気持ちよくなってきてホッとする。浴室の鏡は湿気で曇っていて私の全体像をぼやかしてくれている。  私は立ち上がりシャワーを止めると、その鏡に手を伸ばし水気を拭き取る。  頭の先から順に身体の曇りが晴れて私という人間の全体像がくっきりと浮かび上がってくる。  うねる前髪、白くて細い肩、浮き出た肋骨の斜め下にある小さな黒子、そして下腹部のその更に下にある男性器。  心が重くなる。この鏡が、身体が、私が私だということを見せつけてくる。何度祈ってもこの身体に魔法がかかることはない。  私が手を伸ばすと鏡の中にいる人間も手を伸ばす。手を下ろす、しゃがむ、私が笑うと彼も笑って、私が泣くと彼が泣く。  木村康太。そんな名前が私の名前で、誰がどこから見ても男子なのが私で、親友を好きになってしまったのも私で。  別に女になりたいわけじゃない。自分が女だという意識はない。男の身体に生まれてきたことに不満はない。でも、じゃあどうして私は彼を好きになってしまったのだろう。  小学生の頃はただの親友で、あの夏以来いつも一緒にいたけれどそこにあるのは友情だけだったと思う。でも、中学校に上がって二人の距離が離れると私の心は逆に彼へと惹きつけられていった。  この気持ちが友情なのか醜い独占欲なのか自分でも整理のできない想いを抱えたまま過ごした二年間を、打ち破ったのは彼だった。 『やっと康太と同じクラスになれた!』  そう言ってちょっと照れるように笑った彼を見て私は気づいてしまった。彼を追ってしまうこの目も、彼が他の誰かと楽しげに話している姿に燻る胸の疼きも、彼が笑うだけで振れてしまう感情も全て足してイコールで繋ぐ簡単な解があることに。  私は彼に、悠に恋をしていた。  顔を上げ、もう一度鏡を見るとその表面は再び湿気で曇り始めていて、私の身体を少しずつ朧げに溶かしていた。  この身体が嫌なんじゃない。彼に愛してもらえない身体が悲しかった。  幼い頃、母に読んでもらったアンデルセンの童話を思い出す。  人魚姫は恋した王子に愛してもらうために人間の体になろうとした。魔女の甘い誘いに乗って禁断の契約を交わした彼女は僅かな望みしかないことを承知で、家族も、人魚である自分も、全てを捨てただ恋のために海の底からその冷たい水の中を駆け登っていった。そして彼女自身も、その想いすらも全て泡となって世界へ溶けた。  きっと彼女は人魚の自分が嫌いだったわけでも人間になりたかったわけでもない。ただ愛する人に愛される資格が欲しかったのだ。  私にそんな勇気はない。物語の主人公でもない些細な人間に過ぎない私には私を捨てる勇気がない。 「パジャマ、ここに置いとくからね」  脱衣所から聞こえる母の声は心を撫でるように柔らかく、私はその聴き慣れた台詞に小さく返事をする。  こんな想いは一生誰にも話すことできない。きっと誰かを傷つけ、悲しませるに決まっている。  愛の力を信じて海の外の世界へと泳いでいく人魚姫に憧れながら、遥か上空を自由に飛んでいく鳥に想い焦がれ、静かに息を潜めて感情の海の底で私は生きていくのだろう。  この想いが泡となっていつか世界に溶けて消えてくれるまで。
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