鏡の国の人魚へ

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 その日、部活が試験休みに入って放課後にそのまま帰っていた悠と鉢合わせした私は、小学生の頃ぶりに帰り道を並んで歩くこととなった。  私と悠の関係は、所属している友達グループの違いもあり小学生の頃ほど近くはなかった。  それでも彼は教室でいつも私に声をかけてくれて、二人で話す時間だけは昔に戻ったような気がしていた。 「もうすぐ夏休みだね」 「はえーよなー。もう中学最後の夏か」 「悠くんはやっぱり陸上漬け?」 「おう。つっても引退までだけどな」  そんな会話をしながら帰る夏の日の午後。夕方なのにまだまだ高く咲き誇っている太陽が、その下を歩く小さな私たちを照らす。隣を歩く悠はその焼けた肌を伝う額の汗を袖でぬぐっていた。 「お前は夏休みどうすんの?」 「うーん」  悠の他愛もない質問に考え込むような仕草をするけれど、部活も入っていない私には当然用事なんてない。一応受験生なので当面のところは勉強と答えるのが正解なのだろうけれど。どうせそんなにしないので嘘は言えない。 「どっか遊びに行ったりしねーの?」 「あーいかない……かな。いやほら、受験勉強しなきゃだし」  前言撤回。私は卑怯な人間だ。予定がないのを誤魔化すのに勉強という言葉はとても都合がいい。 「勉強かー……俺もやんなきゃだなあ。うわっ、やだなあマジで」  そう言って頭を抱え俯いた悠はいつもより小さく見えてなんだか可笑しくて笑ってしまいそうになる。悠は昔から勉強が苦手で、そこは今でも変わらない。 「そうそう。受験生なんだから遊んでる暇ないよ」  私がなぜか上から目線で諭すように言うと、戯けた彼が眉毛を下げしょげるような顔をして見せるのでますます可笑しくて今度こそ笑ってしまった。 「あっ、じゃあ部活引退したらお前ん家で一緒に勉強しねえ?ていうか教えて!お願いします!」 「えっ?」  不意に彼の口から飛び出したその言葉は私の心臓を強く打った。 『学校帰ったら遊ぼうぜ!』『今日ウチでゲームしねえ?』そんな言葉ならかつて何度も悠の口から聞いた。悠はあの頃と同じ顔、同じトーン、きっと同じ気持ちで私を誘ってくれた。でも久しぶりに聞いたその言葉は今の私には刺激が強過ぎた。 「……あれ?嫌だった?」  言葉が感情に固められ喉奥で詰まり上手く紡げない。悠が不安そうな表情で私の顔を覗き込む。 「う……ううん。いいよ。やろう。勉強」 「おーよかった。これでもう高校受かったも同然だ」 「気が早すぎ」  悠が声をあげて笑う。よかった。動揺は悟られていないみたいだ。  なおも隣で悠が色々と楽しそうに話をしているが、私は早鐘を打つ自分の鼓動を抑えることに精一杯だった。  小学生の頃、悠の家に行ったことも、私の家に悠が来たことも勿論あって、同じような事のはずなのに私の意識が少し違うだけでそれはまるで違う出来事になってしまうようだった。  嬉しい。ただ悠が家に来るだけ。二人で勉強するだけ。それだけのことがこんなにも嬉しいなんて。  でも、その嬉しいと言う気持ちが強くなればなるほど今の自分を外から見ている誰かが呟く。  気持ち悪い。  もし今の私の心が硝子のように透けていたら悠は私のことをどう思うだろう。  気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。  言葉は汚れになって心の硝子を侵食していく。必死にかき消そうとするほど汚れは広がり自分自身に黒が滲む。  隣にいる悠の笑顔と、昔の大切な思い出達と、今の私の感情と、この身体が、ぐちゃぐちゃに心をかき回す。  こんな小さなシミ一つが、束の間浮かんでいきそうになった私の心に鎖のようにまとわりついて海底へと沈める。  きっとこの鎖は一生解けることのない呪いなのだろう。 「そういや夏休みといえばさーあれ覚えてる?花火大会の時の」  空から降る光のような悠の声に、私は沈んでゆく心を隠して笑顔を作る。 「……怖かったね。警察」 「そうそうそうそう!いやー俺あの後しばらく家で電話が鳴るたびにビビってたもん!警察からだったらどうしようって」 「わかる。逮捕されるかもって思ってた」 「だよなー!今考えたらそんなわけないんだけど、あの頃はマジで子供だったからなあ」  悠はそう言って笑うと、目を細め僅かに暮色に染まり始めた空を見つめる。そんな彼を横目に捉えながら私も真似して顔を上げる。ずっと遠く高い空を、つがいか親子かもわからない小さな二羽の鳥が私たちの視界を右から左へ、遠く雲の切れ間を縫うように自由に羽ばたいて消えていった。    小学校六年の花火大会。それまではみんな家族で行ってたお祭りに、少しだけ背伸びして子供だけで行ってみようという話になった。  しかし結局当日集まったのは私と悠だけで、他のクラスメイト達は親からの許可が下りなかった。  夏休みに入ったばかりの時期にあるお祭り、沢山の屋台の並ぶ河川敷、人が山のようにいるその場所に子供だけでいる特別感。色々な要素が相乗して私と悠を高揚させた。  夜の帳の下りる頃。貯め込んでいた僅かばかりのお小遣いを握りしめて練り歩く薄暗い河川敷の風景は、夕闇と並んだ提灯の橙によっていつもより少しだけ大人びた表情をしていて、そんな非日常の空気に当てられた私たちはちょっとだけ興奮していて、表にゲームが並ぶクジ屋でろくでもないハズレ景品をもらって、かき氷を買って、冷めた焼きそばを二人で分け合って笑った。  それは首輪をしたまま脱走した飼い犬のような束の間の幼い冒険に過ぎなかったのかもしれない。それでもあの日の私達は子供という鎖を一つ落として少しだけ軽くなった体でその束の間の自由の上で跳ね回った。  しかし、時刻が八時を回り空の闇が濃くなってきていよいよ始まる花火を少しでも近くで見ようと二人で座れる場所を探し彷徨っていたその時、私は後ろから強い力で肩を叩かれた。  二人組の警察官だった。  今考えると、おうちの人は一緒じゃないのか、とか、子供達だけで来るのは危ないから早めに帰りなさい、だとか、そんなこと言っていたのかもしれない。  けれどその時の私は初めて本物の警察官に話しかけられた驚きと怖さで石みたいに固まってしまった。 「逃げるぞ!」  そう叫んで私を石から戻したのは悠だった。次の瞬間、私は悠に腕を引っ張られ、持っていた焼きそばをその場に落として走り出す羽目になる。 「待ちなさい!」という警官の声が聞こえたような聞こえなかったような。本来なら子供の足なんてすぐに追いつかれそうなものだが、何せ花火大会だ。人が沢山で屋台から少し離れると薄暗く隣の人の顔もろくに見えない。  悠は小さな体で人の間を縫うようにするすると走る。右手を引かれている私も自動的に悠の後をついて人混みを駆け抜ける。  私たちは土手を凄いスピードで駆け上がり、規制されて歩行者天国となっていた橋の上もその速度を保ったままで走り抜けていく。その時、一発目の花火が上がり、夜空に咲いた花の光と少し遅れてくる爆発音が橋の上にいた人達をどよめかせた。  私と彼は走りながら、橋の上からその花火を見た。その時、彼が私を振り返って見せてくれた笑顔が遠くの花火の光に照らされ眩くて、彼がこの手を掴んでくれるのならどこまでも走って行ける、空にも飛んでいける。そんな気がした。  気づいた時には私たちはとっくに二人の警察官を振り切っていた。  人のいないところまで走ってゼェゼェと息を切らして座り込んだ私たちの上にもう一度大きな花火が上がる。それを見て二人とも何か言おうとしたのだけれど息が切れてお互い言葉にならない。その様子に二人で笑う。笑うとまた息が切れる。そんな二人だけの時間が私と悠をクラスメイトから友達へ、友達から親友にしていったのかもしれない。 「俺、あんなに走ったの人生で初めてだったわマジで。死ぬかと思ったもん」  今、隣を歩くのはあの時よりずっと逞しく男らしくなった悠だ。もしその手でもう一度本気で私の腕を掴まれたら骨が折れてしまうかもしれない。 「でもさ、あれ。すげえ楽しかったよな」  そう言って私に歯を見せた彼の笑顔が遠くの夕陽に照らされ煌めく。 「うん。すっごい楽しかった」  私も精一杯の笑顔を見せて返事をするが、なんとなくぎこちなくなってしまう。  悠は今年は誰といくのだろうか。鈴原とだろうか。去年は?来年は?そんな言葉が頭を回る。  それから私達はまた当たり障りのない言葉を交わして別れ道についた。  私の家はここから真っ直ぐで悠の家は右に折れてまたしばらくいった先にある。小六の夏以来、一緒に帰ることが習慣になっていた私達はあの頃いつもここで手を振って別れた。 「それじゃあまた」  私がそう言って昔のように振ろうとした手を悠の手が掴んだ。その手はやっぱり大きくて、かつての私の知っている手とは別人のようだった。 「ちょっと待って、そういや俺お前の連絡先知らねえじゃん」 「あっ」  私たちはお互いのポケットからスマホを出した。 「アプリでいいよな。ほい、これ俺のコード」 「あっと、えっと……」  中学に入って買ってもらったはいいものの完全に持て余していたスマホを私はぎこちなく扱う。その様子を見てまた悠が笑う。 「おいおいお爺ちゃんか」 「うるさい」  なんとか登録を終えると、悠のアイコンが『新しい友だち』として表示されていた。  ピコン♪と通知がきて開くと、悠から、ゾウが『よろしくお願いしマンモス!』と叫んでいるスタンプが届いていた。 「悠くん……これはゾウと言ってね。マンモスじゃないよ」 「お前、俺のこと超頭悪いと思ってるだろ」 「ごめん」 「思ってんのかよ!」  ずっこけるような仕草を見せて笑う悠の笑顔はやっぱりあの頃のままで。 「じゃあまた明日な!」  低く逞しい声でそう言って去っていく悠の背中はやっぱり大きくて。  もしも私が誘えば悠はまた一緒に花火大会に行ってくれるのだろうか。  また当たらないクジを引いて同じ焼きそばを食べて、私の手を引いて逃げてくれるだろうか。この身体と心ををあの空へと連れていってくれるだろうか。  そんな日が来たらまた私はあの日のように悠の親友になれるだろうか。  一人で真っ直ぐな道を歩きながらスマホの画面を見る。そこにはクラスメイトから親友になって、一旦離れて、またクラスメイトに戻って今度は『新しい友だち』になった私の好きな人がいた。 『また一緒に花火大会に行こうよ』  心に浮かんだ言葉をそのままメッセージ欄に打つ。目の前にいると絶対に口には出せない言葉がアプリの中でならこんなに簡単でなんでもないような無機質さで伝えられる。  立ち止まって深く息を吸い込む。トーク画面にいる彼へと向かって投げる想いがそこにある。あとは右手の親指に力を込めて送信ボタンをタップすれば私の言葉は電子の海を一瞬でわたり彼の元へと届く。  そしたらきっとまた戻れる。  だから押せ。押すだけ。それだけ。ただそれだけ。だから……。  気持ち悪い。  溢れるように出てくるその言葉が私の身体を縛り付ける。  ただ友人として花火大会に誘ったくらいで気持ちを悟られることはないはず。でも万が一彼に気づかれたら?  気持ち悪い。  恋とか愛とか好きだとかそんな想いが相手に伝わることは素敵なことだと、だから叶わなくても伝えることに価値があるんだと、物語や、歌や、どこかの誰かは言う。  でも、そうじゃない人がいる。想うことが罪になり、伝えることで壊れてしまう関係がある。  未送信のメッセージを消して、別の言葉に書き換える。 『私は、悠のことが好き』  送る気なんてないくせに。  また別の、どこかの誰かが言う。  気持ち悪い。
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