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次の日から私は予定通り一歩も外へ出ることのない夏を過ごし、気がついたら暦は八月に入っていた。
あの終業式の日から、悠とは一度も会っていない。そもそもどんな顔で彼と会えばいいのかもわからない。
私は今日もまた陽の高い時間からこの健康な体をベッドに預けて眠りの浅瀬に溺れている。夏休みに入ってからと言うもの、睡眠時間は増える一方だ。眠りたくないのに無気力を理由に貪る惰眠は心に罪悪感だけを積み重ねていく。
あの日、悠の手を引いていった鈴原の顔。一瞬だけ見えたその目を私はよく知っていた。心の奥底、暗くて深い場所にいる自分自身を見つめる時、その鏡の向こうに映る苦しい瞳。
悠から『震えていた』という言葉を聴いたとき、海の底にいる私から遥か遠く、重力に縛られない場所で自由に生きていると思っていた彼女が確かに私と同じ目をしていたこと、愛する人から愛されないことに怯えていたこと、そんなことに気付いてしまった。
そんなこと、気付きたくなかったのに。
太陽は少しずつ峠を下り始め、この部屋に差し込む光も弱くなってくる。家の前の道路を跳ね回る子供たちの無邪気な声に室内の無音が揺らぐ。
窓ガラス一枚を隔てた外の世界からカーテン越しに漏れる光量だけでかろうじで現実感を保っているようなこの部屋はまるで海の中みたいで、自分の座標を見失ったように身体が宙に浮いていく感覚が私を襲う。
輪郭すらも溶けてしまいそうな曖昧な五感の中で、私は右手を水面へと伸ばす。
鳥を追えない小さな手。悠に手を引いてもらった右手。
私はまだこの手を誰かに引いてもらうのを待っているのだろうか。
悠を教室から連れ出すため、彼の右手を掴んだ鈴原の手は私よりさらに小さく頼りないように見えた。
彼女のように、この海の外の世界を目指して登っていけたら私も何か変われるのだろうか。
少しだけ、右手に力を込めて水中を掻いてみる。
だけど、と、意識に落ちてきたもう一人の自分が水面へと登ろうとする私の行手を阻む。
『その想いを拒絶されたら』
一つ、身体に重りがかかる。
『気持ち悪いと思われたら』
また一つ、重りは増えて私の身体はズブズブと沈み始める。光差す水面は遠く離れていく。
『だってこんな想いは、普通じゃないから』
最後の重りが身体に絡みついて私を更に暗い場所へと連れていく。
私の身体は重りに巻きつかれ、心は硬い石になって、光も届かないような深度、酸素なんてもう二度と吸えないような海の底へ落ちていく。
でも、きっとこれでいい。私の心なんてこの想いごと海の底に沈めて、誰にも見つからない場所に隠してしまえばいいんだ。きっとそれが、誰も傷付かず傷付けないで済む唯一の方法だから。
私は海底にようやく見つけた自分の寝床の上でゆっくりと目を閉じる。次にこの目が覚める頃にはきっと、この想いは泡となって消えてくれるはず。そう信じて、私の心は眠りにつく。
しかし、部屋に響く明るいノックの音がいつかのように私の意識をこじ開けた。
「康太?起きてる?」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、いつもの優しいお母さんの声だった。
私は、首をゆっくりと動かし辺りを見渡す。
さっきまで漂っていた海はどこかへ消え、そこには慣れ親しんだ私の部屋の風景が広がっていた。
「おーい、起きてるかー」
お母さんが再びドアをノックする。
「……寝てる」
「そう。じゃあ入るね」
「えっ、ちょっ……!」
侮っていた。ちゃんと部屋にいるアピールをしてもお母さんはお構いなしで私の部屋の中へずけずけと入ってくる。
「思春期の息子の部屋なんだからもうちょっと遠慮してほしいんだけど」
ごめんね。と笑いながらもお母さんは全く悪びれる様子もなく、ベッドの端に腰掛ける。
「なんの用?」
「お話でもしてあげようかと思って。ほら、あなた昔アンデルセンとか好きだったじゃない」
「覚えてません」私はベッドに横になったまま答える「第一覚えてたとしても必要ないです」
不貞腐れた声でそういうとお母さんは、そっか、あんなに好きだったのにな。と少し残念そうに呟く。その声に少しだけ胸が痛む。
「そうね。康太も思春期だものね。じゃあ代わりに私とお父さんの恋の話をしてあげよう」
「思春期に一番聞きたくない話題なんだけど」
「あのね、お父さんとお母さんはね」
「拒否権ないんだ」
「教師と生徒だったの」
一瞬だけ、空気が止まった。
「……えぇ!?!?」
次の瞬間そう叫んで飛び起きた私にお母さんは嬉しそうに笑う。
「ふふふ、ビックリした?高校の担任だったのよお父さん」
「いや、ビックリっていうかなんていうか……歳の差とは聞いてたけど……」
私は混乱した頭でお父さんの顔を思い浮かべる。写真の中でしか知らないお父さん。厳格そうな雰囲気を漂わせて、頭に霜を頂く渋いおじさん。でも実は生徒と結婚した高校教師。ロリコン。変態きょうs
「今ひどいこと考えてるでしょう」
お母さんが私の頭の中を鋭く遮る。
「えっ、いやっ、その……なんでわかったの」
「お母さんだから」
「答えになってないけど……」
笑いながら、ふと窓の外に目をやる母親の横顔を見つめる。カーテンの隙間から差し込んだ光に照らされたその茶色い髪は、後ろで束ねられ所々に白い筋が入っている。
そしてお母さんは、窓の向こうに顔を向けたまま目を細めてゆっくりと話し始めた。
「ずっと片想いでね。どうしても伝えられなくて。だってそうでしょう?歳の差もあるし、それに教師と生徒なんて、こんなこと誰にも相談できないし。だから、学年が変わってお父さんが別の学校へ転勤するその最後の日、告白しようと思ったのになかなか勇気が出なくて……でも、全部諦めて大人しく家に帰ろうって思って校門出た瞬間に。あっ、私今日のことを一生後悔するんだろうなって思ったの。で、気が付いたら」
「気が付いたら?」
「走ってた。お父さんの手引っ張って」
「なにそれ」
あはは、と私が笑うとお母さんも釣られるように笑った「本当ね。何考えてたんだろあたし。若かったんだなあ」
「それでそれで?お父さんになんて言って告白したの?」
思わず身を乗り出して聞いた私にお母さんはいたずらっぽく言う。
「ひみつ」
「ええー!?ここまできて?気になるのに!」
私はなんとかその言葉を聞き出そうとするがお母さんはニコニコするだけで全く言う気はなさそうだった。
「これはお母さんとお父さんだけの秘密。だから誰にも言わない」
お母さんは目尻に三本の皺を作って笑う。お母さんはこう見えて頑固だからこれはどうやら聞けそうにない。いや、でも気になる。どうしたら上手く聞き出せるだろう……。
うーん、と私が首を捻っていると、お母さんが言った。
「どう?そろそろ目、覚めた?」
「あっ」
いつの間にか私は身体をベッドから引き剥がすように上体を起こしていた。やられた。
子供の頃からいつもそうだ。私が体を壊した時、不貞腐れてる時、傷ついた時、どんな時でもお母さんはずけずけと私の中へ入ってきていつの間にか私は元気付けられてしまっている。
「ねえ、お母さん」
「どうしたの?」
私は正座して、お母さんに身体ごと向き直る。私たちの間に差す光に埃が舞っている。
「お母さんは…………怖くはなかったの?お父さんにその……拒絶されたらどうしようとか……あと、周りの目とか……」
下を向いてベッドの上に途切れ途切れに落とす私の言葉を、お母さんは次を促すこともなく一つ一つ掬い上げるようにしてゆっくり頷いて聞いて、そして簡潔に答えた。
「うん。怖かった。もうね、めーちゃくちゃ怖かった」
「そうなの?」
あまりにもあっけらかんと言ったその言葉に驚いて、私は思わず顔をあげる。
そしてハッと息を飲んだ。
「でも、好きだったもん。先生のこと」
そう言って、私の目の前で少しはにかむように笑っていたのは、二十年の時を経ても変わらない少女だった。
その笑顔を見た瞬間、私はベッドから降りて二本の足を確かに床に付けて立ち上がった。
「ありがとうお母さん。……ちょっと出かけてくる」
「そう。いってらっしゃい」
お母さんはベッドの淵に腰掛けたまま、ドアを開いてこの部屋を出ようとする私の背中を優しく言葉で押した。
「私は絶対に康太の味方だからね。だから、大丈夫よ」
すっかり夕暮れ色に染まった部屋を後にした私は早足で階段を降り、そのまま玄関から飛び出した。
身体は軽く、見えない手に背中を押されるようにぐんぐんと前に進み、私はいつの間にか走り出していた。
走りながら一度だけ振り返ると、私たちの暮らす二階建ての一軒家が遠ざかっていく。
二人きりで過ごすには大きすぎた家。いつも綺麗に掃除されていた廊下。一度だけお母さんの啜り泣く声が聞こえたお父さんの部屋。当たり前みたいにいつも温かいご飯が待っている広いリビング。
沢山の思い出とともに家が遠く、小さくなっていく。
きっと、帰ったらいっぱい話をしよう。いつもみたいに二人でリビングに座って、お母さんの作ってくれた料理に手を合わせて、お父さんとの話をたくさん聞いて、秘密の言葉だって絶対に聞き出してやるんだ。
それから、その時には、私の大好きな人の話も聞いてほしい。
ねえお母さん、私、恋をしたんだよ。
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