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遠くに沈む太陽の残光が居座る街の中を、私は素足にサンダルを突っ掛けて走った。普段ろくに運動なんてしない私の走りはきっとカクカクとぎこちなく、他人が見たら笑うかもしれない。
頭の上、手を伸ばしても絶対に届かない高さを数羽の鳥が追い越していく。それでも私はただ不細工に、この二本の足を前に出しながら全力で走っていく。
道ゆく人たちは色とりどりの浴衣を着た家族だったり、恋人同士だったり。みんな一様に笑顔で、幸せそうで。
私もあんな風に、大好きな人と笑顔で明るい道を歩ける日が来るだろうか。
「康太!?」
道の向こうから響く聴き慣れたその声は、私の両足に急ブレーキをかけさせた。
「……悠くん?」
「お前どうしてここに?」
「えっ……と……その……」
こちらに駆け寄ってきて、私以上に驚いた様子を見せている悠。
たくさん、伝えたいことがあった。
しかし、家から全速力で走ってきた今の私には酸素が足りなかった。頭が回らず、息が切れて言葉すら途切れ途切れで。だから、と言っていいのかはわからないけれど、気付いた時には私の右手は悠の手を掴んでいた。
「おっ、おいちょっと!?康太!?」
戸惑う彼の声を振り切るように、私はその大きな手を引っ張り再び走りはじめた。
彼の手を引いて走ると外の景色が消える。見慣れた道路も通行人の目も、全てが世界のノイズみたいに背景に溶けていく。
たったこれだけ。目の前にある手にこの手を伸ばす。たったそれだけの勇気で、私の中にある無駄な感情が幻みたいに消えていく。
「おい……!この先って……!」
後ろから途切れ途切れに聞こえる悠の声で顔を上げると、色彩豊かな浴衣の列が私達を導くようにこの先にある河川敷へと伸びている。
薄闇に染まった川沿いを無数の人の群れと屋台の柔らかい灯りが賑やかす、三年前のあの日と同じ光景が私達の目の前に広がった。
花火大会。あの日悠に引っ張ってもらって逃げた場所へ、今度は私が彼の手を引いて走っていく。
歩道から土手を下へと伸びるコンクリートの階段を駆け降り、屋台で賑わう道の外れまで来たところでようやく私は足を止めた。
「……お前、急に走り出すからビックリしたわマジで」
膝に手をつき、乱れた息をどうにか整えようとする私の背中を悠がぽんぽんと叩く。流石、と言うべきか彼はほとんど息が切れていないように見える。
「ごめんなんか……走ってた。気が付いたら」
「なんだそれ」
そう言って悠が吹き出したので私も嬉しくなって笑う。
次の瞬間、私たちの背中側から最初の花火が上がった。周囲の歓声に釣られ振り返った紺の空に麦藁色の花が咲いていた。
人の流れに乗って河川敷を歩き始めると、以前は大人の背中ばかりが見えていたこの人の川が、今は彼らの表情まで見えていることに気付く。三年という月日はこの場所を何も変えはしなかったけれど、私達を確かに変えていた。
悠と私はいつの間にか人混みから遠ざかり、いつか二人で駆け抜けた橋の下辺りに来ていた。そこはメインの打ち上げ場所からは離れているため人は少なく、土手にゆったりと腰を下ろして見上げている数組のカップルが離れた場所に点在しているだけだった。
「俺達はここら辺でいいか」
そう言って悠が土手に腰をおろしかけて、地面に片手をついたところで慌ててまた立ち上がる。
「あっぶねー」
「どうしたの?」
「ほらここ」
そう言って彼が足元を指さす。釣られて視線を落とすと、悠が座ろうとした場所に名も知らない花が咲いていた。
「気付かずに踏んじまうとこだったわ。ケツで」
そう言って笑うと、悠は少し位置をずらして今度こそ腰を下ろす。私も一緒に笑って隣に座る。
腰を下ろしてふと気づいた。私は何をしようとしてたんだっけ。
とにかく悠に会わないといけないと思った。だから悠に会えたら今度は無我夢中で手を引っ張って走ってしまった。
そして、その先は……?
『ひみつ』
頭の中にお母さんの声が響く。いやいやいや、秘密、じゃないよお母さん。ここからが大事だよ。ここからどうしたらいいのかさっぱりわかんないよ。
あぁ…あの時無理矢理にでも聞き出しとくんだった。
うぐぐ、と頭を抱えた私の顔を悠が心配そうに覗き込んでくる。
「康太?大丈夫か?」
「あっ、うん。大丈夫。えっと……今日は部活は?休みだったの?」
頭を整理するための時間を稼ぎになんとか無難な話題を振り絞る私。
しかし、「あぁ」と返した悠の声には思わぬ翳りがあった。
「昨日、終わったんだよ」
「えっ」
彼の苦しそうな声に私は言葉を失う。
「県予選の記録審査会だったんだけどさ、全国の出場枠まであと5センチ届かなかった」
そこまで言うと悠は立ち上がった。闇と薄灯の交じる空間に溶けてぼんやりと浮かぶ彼の体。よく見るとその足や腕にはまた傷が増えていた。
「でもさ、最後に今までの自己ベストよりも高いバーに飛んだんだ」
両手でパタパタとお尻をはたいて草を落とした彼が二歩、三歩と前へ進む。
私は同じ場所に座ったまま、前に進む悠の背中に向かって尋ねる。「どうだった?」
「ダメだった」
彼がそう笑って振り返った瞬間に、ドンっとその顔を斜め後ろから照らすようにまた大きな花火が上がった。
「おぉ、すっげ。めっちゃ綺麗」
釣られるように音の鳴った方角を見て無邪気に笑う悠。その顔は花火の光に照らされてはっきり見えた。日に焼けた肌、子供のように無邪気に見開いた瞳と間抜けに開いた口。その顔が私の視線に気づいて、またこちらを振り返り言った。
「でも高校では絶対に飛んでやる」
強い決意を滲ませたその声でようやく私は自分の心の形を理解した。
あの日、教室の窓から見たグラウンド。その片隅でふわりと柔らかく宙を舞う彼を私は自由な鳥のようだと感じた。でも、それは違った。彼に翼なんてない。たった5センチの壁の向こうにすら届かない、その身体に沢山傷をつけて、努力して、それでも届かない。そんなどこにでもいる普通の男の子。
悠をどうして好きになってしまったのか。ずっと不思議だった。けれど、今ならはっきりとこの心を言葉にできる。
鏡の向こうにいる私を隠した最後の霧が晴れていく。
彼が空を飛べるから憧れたんじゃない。届かなくても、それでも5センチの向こう側を目指して何度でも飛び続ける。そんな悠だから私は好きになった。
これが私の心。誰に言われた相手でもない、誰に望まれた相手でもない。私は私の全てで彼が好きで、それは当たり前のことで、特別じゃない。そして私自身も特別なんかじゃない。
だから、もう届かない場所へ手を伸ばすことを恐れない。
言葉が頭を通さず心から自然に口へと流れてくるのがわかる。
私は大きく息を吸った。
「好きだ」
そう聞こえた瞬間、もう一つ大きな花火が上がり二人の間を束の間の光が割入る。
声の主は私ではなかった。私はどんな顔をしていたのだろうか、悠がもう一度言った。
背後に大きく咲く花には目もくれないまま、まるで世界に私だけしかいないみたいに見つめて。
「好きだ。康太」
光の筋みたいに真っ直ぐで力強い声が鼓膜から入って心臓を突く。何が起こったかわからず混乱している私の真正面へ彼がゆっくりと歩み寄り腰を下ろす。
遠くで咲き続ける光が僅かに届く暗闇の中、私たちは硝子一枚も隔てないこの場所で向かい合う。
「ずっとお前のことが好きだったんだ。小学生の頃から。でも……ずっと言えなかった。怖かったんだ。だって……」
言葉を紡ぐ度に明滅し水面に映る影のように朧げに揺れる悠の声を、スピーカーから流れるアナウンスがかき消す。
『続いての花火は、岩永隼人さんより、本日一緒に来られている恋人の中島綾乃さんへ送るメッセージ花火です』
「でも、鈴原の告白を断った時。あいつ、泣きながら俺に謝ってたんだ。私が好きになってごめんねって。何度も、何度も……あいつなんにも悪くねえのに。だから俺、このままじゃ絶対ダメだって、自分が傷つかないためにまた誰かを傷つけてしまうのも、逃げ続けることも……」
『綾乃、大好きだよ。結婚しよう』
大きな花火と共にこの日一番の歓声が河川敷中に響き渡った。上空に散る光に照らされた人々が橋の上から、出店の行列から、祝福する声が上がり大きな拍手が鳴り響く。それはまるで世界中が彼らを祝福しているみたいで。
「ごめん。ごめんな。こんなこと言って。俺が、男の俺がお前のことを好きになってしまって本当にごめん」
まるで懺悔するかのように言葉を落として俯く悠の体がいつもよりずっと小さく見える。
私は彼の震える左手を自分の手にそっと取った。
「だけど、やっぱり伝えたかったんだ。気持ち悪いって思われるかもしれないけど、それでも……俺は……」
「悠くん。こっちを見て」
顔を上げた彼の瞳を見ながら、石のように硬く閉ざされたその手をゆっくりと解きほぐし、自分の手の平をそこに重ねる。
『続いては、大原義雄さんより、五十年連れ添った愛する奥様へ向けてのメッセージです』
再び上がる大きな花火とそれを祝福する声。
大輪の花の端に漏れる僅かな明かりで、私を見つめる彼の瞳がこんなに弱々しかったことを知る。
悠は確かに此処に在って、私の身体も同じ地平の上、手を伸ばせば触れられるほど近くに在る。
呪いなんてないこの世界で、翼も鱗も持たない私達は生きている。
あの日、どれだけ重ねても硝子の向こうで触れることのできなかった手と手がピッタリと重なり一つになる。
その細い声も、か弱い瞳も、震える体も、小さな手も、彼はまるで私そのものだった。
ささやかで頼りない勇気を、鏡の向こうへと伸ばして重ねた二つの手。その体に絡みつく重力をまだ振り払うことのできない幼い二人。
世界に祝福される美しく大きな花の足元で。私達は誰にも知られることなく、誰かに踏み躙られることに怯えながら、それでもこの大地の上に確かに咲いている。
瞼を閉じて、かろうじで鼻孔から取り込んだ酸素は、ほのかな夏の花の香りを伴い私の身体へと流れ込み、そこにある肺をたしかに満たしていく。
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