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早速、預かったギターケースを作業台に置いて、蓋を開けてみる。
アコースティックギターだった。
くびれが大きく、やや小ぶりだ。
(これはフォークタイプだね)
音大にも同じ形のアコースティックギターがたくさんあったので、一目でわかった。
かなり使い込まれている様子だ。ボディが傷だらけになっているし、手垢もあちらこちらに見える。お世辞にも、こまめにお手入れをされているわけではなさそうだった。
年代ものという点以外は、特筆すべきところはない。なんの変哲もない、大量生産されているギターだ。決して高価なものとは言えなかった。
「ギターを弾くんですか?」
ギターを持って来た男性に対してする質問としては、いささか奇妙ではあったが、大柄な男性が持つには、このギターは少し小さく、違和感を覚えたのだった。
倉庫内にあるドラムセットを興味深げに見ていた男性は、「いやいや」と微笑む。
「残念ながら僕は、音楽はまるでダメなんだ。第一、この手だとギターの弦は押さえにくくて」
これからオペをする外科医のように、両方の手の甲を小鳥の方へと向けて見せたのだった。
毛むくじゃらの手はたくましく、ゴツゴツしている。まるで長さの違うフランクフルトが5本引っ付いているみたいだ、と小鳥は思った。
小鳥はクスリと笑う。
「確かにその指だと、弦をまとめて2本押さえてしまいそうですね」
「でしょ? パソコンのキーボードを押すのにも苦労するんだよ」
男性は空中で指を動かす。パソコンのキーボードを叩いている真似をしているというわけだ。
「君が言うように、油断してるとうっかり2つのボタンを同時に押してしまったりするからね」
「ということは、これは誰のギターなんですか?」
「ウチの会社のお得意さんのものなんだよ」
「確か、広告のデザインのお仕事でしたっけ?」
「そう。頼まれてポスターができたんで、今日の午前中に届けに行ったんだよ」
男性はフランクフルト──いや、指でギターを指す。
「お得意さんから、帰るついでに弦の張り替えを頼んでくれって言われちゃってさ」
「へえ。優しいんですね」
「まあ、お得意さんの頼みごとだから、無下にも断れないしね」
男性は体の前で腕を組むと、顎をさすった。
「それにその人には、何かとお世話になってるんだよね」
「そうなんですか」
小鳥は男性の話にうなずきながら、弦の張り替え作業に入る。
(さてと。弦を張り替えるには、まずブリッジピンを外すんだっけか)
ブリッジピンとは、弦をギターに固定するために使われている止め具のこと。
ギターを構えた時に、聞き腕のちょうど手首あたりにくる、山型になったパーツだ。
これがあることで、弦はギターのボディから程よく浮かせることができ、指で弾き奏でられた音は、サウンドホールと呼ばれる穴の中で響き美しい音色となるわけだ。
小鳥はニッパーを使い、ブリッジピンを挟み込む。
(意外と固いな)
力を込めてこじる。
何度か繰り返すと、悪戦苦闘しつつもなんとかブリッジピンを外すことができた。
(ここまでくれば、こっちのものだね)
小鳥は手際良く弦の張り替え行っていく。
多少は手間取ったため、30分ほどかかってしまった。
「お待たせしました。弦の張り替え、できました」
男性は「ほう」と、感心したように声を上げたのだった。
「もうできたの?」
「ええ。一応は……」
弦の張り替えだけなら、成田たちならおそらくものの10分もあればできるだろう。
(まっ、それは内緒にしておこう)
男性は眉毛を持ち上げると、慎重な手つきでギターに触れた。
「すごいねえ! さすがはプロだ!」
せっかく褒めてもらえているのだから、訂正する必要はない。何より、小鳥としては悪い気はしなかった。
「いやぁ、こんなのは誰でもできますから」
一応は謙遜しながら使った道具を片付けていると、自分に向けられている視線に気がついた。
男性が小鳥のことを見ていたのだった。
口元には笑みを浮かべいるようだったが、どことなく寂しげな表情にも見えた。
「どうかしましたか?」
男性は「うーん」と唸り声を上げる。また腕組みをすると、ぽつりとつぶやくように言ってのだった。
「不思議なんだけどね。みんな、君と同じようなことを言うんだよ」
「え?」
「『普通の会社員です』とか、『全然、特別なことじゃないんです』とかね」
でもね、と小鳥に向き合うように視線を戻すと、まるで言い含めるような優しい口調で続ける。
「ギターの弦の張り替えってね。誰にでもできることじゃないんだよ。だって、少なくとも僕にはできないからね」
それはそうだろう、と小鳥はうなずく。
「やったことがないんだから、仕方がないことかと……」
男性はおもむろに小鳥を指さした。あたかもクイズ番組の司会者が「正解!」と言う時のようだった。
「そう! その通りなんだよ!」
男性の声に熱が帯びる。
「練習すればできるのかもしれない。でもね、多くの人はやらないんだよ。だからこそこの仕事には、価値があるんじゃないのかな?」
「まあ……そう、ですね」
そうでなければ、弦の張り替えなんて仕事は成立しなくなるのだ。
「そして君は、弦の張り替えができるようになるために、多少なりとも時間を費やしたはずだ。
この会社に入って最初に弦の張り替えをさせられた──小鳥が「できます!」と言ったからだが──そこで今日よりも手惑い、最終的には成田から「もういいっ!」と呆れられてしまったのだった。
それが悔しくて、その日以来、インターネットで拾ってきた画像を見ながら密かに練習していたのだった。
男性は感慨深げにうんうんとうなずいている。
「その費やした時間は、特別で尊いことなんだよ。そして弦の張り替えに費やした時間こそが、君を特別にしてるんだ」
「特別……」
なんだかわかったような、わからないような──ただ間違いないのは、この人は今、真剣に話をしているということだ。
だから小鳥もまた、同じくらいの熱量で聞かないといけないのだと思った。
男性の口調はさらに力強くなる。
「自分のことを、過小評価しちゃダメだ! いいね? 君は十分にすごい人なんだから!」
そう言って男性は小鳥の手を取った。
真っ直ぐに見つめられている上に、知らない男性に手を握られてしまったのだ。
この状況で22歳の女子が戸惑うなという方が無理というものだろう。
小鳥は後ずさりしようと1歩足を引いた。が、(あれ?)と思った。
あまり嫌な感じがしなかったのだ。
男性は「いいね? 君は特別なんだからね!」と、念を押すように繰り返していた。
その熱量がなんだか小鳥にはおかしく、笑ってしまったのだった。
それを見た男性は、自分の頭に手をやると、「あちゃあ」と表情をしかめたのだった。
「ごめんね……」
いかにも申し訳ないといった感じで、眉毛の端が垂れ下がる。
「僕の悪い癖だ。若い人を見ると、つい説教臭くなっちゃうんだよ」
大きな体を目一杯に縮めてうなだれていた。
「ありがとうございます」
自然に口からついて出た言葉だった。
「そんなことを言われたのは初めてだったので、うれしかったです。それにちょっとだけ、元気が出ました」
嫌味でもなんでもなく本心だ。そんな小鳥を見た男性は、ホッとしたようだった。
「それなら良かった」
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