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夏の終わり。私の中で狸の印象と言ったら、ふわふわの毛皮に覆われているものだったけど、夏毛なんだろう。思ったよりもほっそりとしている。
……本当に狸なんだ。
狸が化ける、という話は昔話で見かけるけど、本当にあるんだな……
どうしようかと悩んでいると、昴さんが歩み寄ってきて言った。
「とりあえず、その姿を見られたくないんでしょ? 近くに神社があるからそこで話を聞こうか」
昴さんは狸を抱え、通りを歩きだした。
私はその後を慌てて追いかける。その時、背後で扉が開く音が聞こえて私は振り返った。
お屋敷の裏門の扉が開き、女性が辺りを見回している姿が見える。
あの人が子爵のお嬢さん……なんだろうな。
家族に紹介するほどの相手が狸だと知ったらどう思うんだろう……
なんだかやるせない。
少し通りを歩くと小さな神社があり、その境内に入ると昴さんは狸をそっと地面におろして言った。
「なんで、彼女に人の姿で会いに行っていたの」
地面におろされた狸は、下を俯きぶるり、と身体を震わせた。
怖い、のかな?
私は狸の側でしゃがみ、声をかける。
「あ、あの……別に責めてるわけではないので。ただ、彼女のご家族が心配していて……」
そう声をかけると、狸はばっと、顔を上げた。
「あ……も、もしかして、彼女のご家族には俺の姿が見えないから……?」
「あぁ。だから危険はないと伝えたけれど、子爵は心配して正体を突き止めてほしいと言いだして。それで僕が呼ばれたんだ」
「そ、そうなんですか……」
しゅん、とした様子で狸はまた下を俯いてしまう。
「お嬢さんと俺が会ったのは……三か月ほど前のことです。神宮の森で怪我をして動けなくなっていた俺を助けてくれたのがお嬢さんで……しばらく家に置いてくれたんです」
そう言って、狸は左手をさする。
左手っていうか……左前足か。その一部は毛が生えていなくて怪我のあとが見える。
「それでなんでわざわざ人間になって会いに行っていた?」
「そ、それは……お礼がしたかったのと……その……お嬢さんのことが気になった、から……狸の姿で行こうとしたら途中で人間に見つかって捕まるだろうし……でも夜、人目を忍んで家のそばに行った時、ある人が俺に力をくれたんだ!」
言いながら狸はばっと、顔を上げる。
……ある人?
「その人が俺に力をくれて……でも、俺、妖力がそもそもないからそんなに人間でいられなくて……弱すぎるからお嬢さんの家族には見えないみたいなんだ」
「じゃあ、貴方はあやかしじゃないの……?」
「そ、そこまでの年とってないから……でも、あの人のお陰で俺、あやかしになれたんだ!」
と言い、狸は嬉しそうに尻尾を振った。
ただの狸をあやかしにできる存在ってなんだろう。
考えていると、狸は急にまたしゅん、として俯いてしまう。
「でも、そんなことになってるなら今のまま会いに行ったら迷惑かな……」
「僕としては放っておいてあげたいけど、いつまで狸だってことを隠して会い続けるの? 君がしていることは、彼女を騙すことだと思うよ」
昴さんの容赦ない言葉に、狸はハッとした顔をする。
「そ、そ、そうですけど……でも俺、人間でずっといられないし……だからあの時俺に力をくれた人に会って、もう一度力を貰えば……!」
そう、拳を握りしめて言う狸に、昴さんの冷たい声がかかった。
「やめておけ。身の程に合わない力を身に着けても、その力に飲み込まれて鬼化するだけだ」
その言葉を聞いて、狸はぶるり、と震えた。
狸も鬼になるんだ……てっきり人だけが鬼になるものだと思っていたけど。
「お、お、お、鬼……って、俺、そんなつもりじゃ……」
怯えた声で言い、狸は首を横に振る。
「それで、お前に力を与えたやつは何者だ?」
「お、鬼だったけど……」
消え入るような声で言い、狸はかたかたと震えて昴さんを見つめた。
昴さん、怖い顔をして狸を見ている。
「鬼は人を喰らう。知っているだろう、そんなこと。お前はそのお嬢さんを喰いたいのか?」
「そ、そんなの嫌です! 俺は人、喰わないし」
言いながら狸はぶるぶると首を横に振る。
鬼に力を与えられたから、この狸はあやかしになった。でもその力が弱すぎるから人に化けてもお嬢さんにしか見えない。
でも、これ以上力を貰ったら、鬼になっちゃうってこと?
……鬼になった狸ってどんなだろう?
「喰いたくなくても、鬼の力に飲まれてお前は喰うよ。僕はそんなやつのこと、たくさん見てきたから。鬼の力を貰い殺戮を繰り返し、家族を喰ったやつを」
その昴さんの声に、憎しみの響きを感じたのはたぶん気のせいじゃないだろう。
私はしゃがんだまま、昴さんを振り返る。
暗くて、昴さんの顔はよく見えない。だけど、纏う空気はわかる。
怖い。
いつの間にか私の身体に鳥肌が立っている。
「う、あ……じゃ、じゃあ、俺はどうしたら……?」
「そのまま消えるか、真実を話すかだろう。その姿なら、お前を彼女の家族は認識できるんだろう?」
「はい……あの、お世話になっているときは『ぽん吉』と呼ばれてましたから」
ぽん吉、って可愛い名前でちょっと笑ってしまう。
「で、でも……俺の正体知ったら、お嬢さんは……」
「じゃあ、そのまま姿を消したら?」
「で、でもそれは……」
家族に会わせるって、そうとうお嬢さんはこの狸のこと、気に入っているよね。
どちらに転んでもいい結果にはならない気がする。
騙す……か。
人の姿に化けて、人として会いに行っていたっていうのはお嬢さんを騙したことになるのか。
狸のままじゃあ捕まるからって理由がはっきりしているけど……なんだか切ないな。
狸にお嬢さんを騙す気なんてなかったのに。
「お前がやったことなんだから、お前しか責任取れないんだよ。加賀子爵は、もしお前があやかしならば祓うよう僕に言ってきた。そのまま人の姿で会いに行き続けるなら、僕はお前を排除しなくちゃいけなくなる。狸の姿で会いに行くなら僕も子爵も止めはしないさ」
それって、実質選択しないんじゃぁ……
昴さんの言葉を聞いて、狸はびくっと身体を震わせたあと、しばらく間をおいて絞り出すような声で言った。
「う……あの……俺、本当のこと、彼女に言います……」
そう言った狸の目からは、涙が溢れていた。
「ねえ、狸。嘘をひとつついたら、嘘をまた重ねなくちゃいけなくなるんだよ。君はいつまでもそれを続けたいの」
「う、嘘をつくつもりなんて……」
「狸であることを隠して会っていたのは、嘘じゃないの」
すると、狸は押し黙ってしまう。
「そ、そこまで言わなくても……」
「そう? 理由はどうであれ君は嘘をついた。その嘘で、彼女の家族はいらぬ心配をすることになった。最初から狸の姿で会いに行けばよかったんだと僕は思うけど」
ぐうのねも出ない正論なんだろうけど、こんな狸が東京の町を歩いていたら目立って仕方ないだろうし、たぶんどこかで捕まってしまうだろう。
狸って食べられるはずだしな……
「うぅ……」
ぼたぼたと涙を流す狸が可愛そうになり、私は狸の頭をそっと撫でた。
「あ、あの、私、何にもできないけど、あの、子爵の家に一緒に行きますから……狸の姿でも大丈夫ですよ?」
すると狸は、さらに頭を深く垂れてしまい、小さく頷いた。
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