1 月のない夜

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 お昼を離れでいただき、屋敷の方に戻るとそこに昴さんが帰宅した。  軍人だと言っていたけど、軍服は着ないんだな……  彼は黒いスーツにマントを羽織っている。  玄関にお迎えにあがると、彼は疲れた顔をして荷物とマントを敬次郎さんに預けながら言った。 「変わりはない?」 「何もございませんでした。郵便物は書斎の方に」 「わかった、ありがとう。面倒事を頼まれてきたよ。日が暮れる前にまた出るから。戸締まりはよろしく」 「かしこまりました」  と言い、昴さんは私の方を一瞥して奥の書斎へと消えて行った。 「かなめ」  とし子さんに声をかけられて、私は思わずびくっと震えて振り返る。 「は、は、はい」 「昴様にお茶をお運びしますから台所へ」  言われて私は返事をして、とし子さんのあとを追いかけた。  黒い湯呑みに緑茶を注ぎ、それにお菓子の載ったお皿を盆にのせて私は書斎へと向かった。  昴さんの書斎は、私が使わせてもらっている部屋の向かい側にある。  扉を叩くとすぐに返事が返ってきたので、私は声をかけて扉を開いて中に入った。  中は広くて、壁いっぱいに本が詰まっている。  部屋の中央には来客用の机とソファー。  そして窓際には机と椅子が置いてある。それは昴さん専用のものらしい。  昴さんは、机に置かれた郵便物を確認しているようだった。  私を一瞥すると、 「そこに置いて」  と言い、ソファーのところにある机を視線で示した。 「か、かしこまりました」  私はぎこちない動きで机に近付き、そこに湯呑みとお菓子の載ったお皿を置く。  お菓子はカステラ、というらしい。  黄色いふわふわした食べ物で、いただきものだととし子さんが言っていた。  お皿にはふた切れ、カステラが載っている。 「君の分は」  思いもよらない言葉が聞こえてきて、私は目を見開いて昴さんを見る。  彼は手紙を手にして、不思議そうな顔で言った。 「君のお茶とお菓子は?」 「え? あ、あの……昴……様の分しか用意してないです」 「じゃあ君の分も持ってきて。あと、僕のことは昴でいいよ。使用人じゃないんだから」 「わ、わかりました」  私は慌てて頭を下げて、書斎をあとにした。  とし子さんも他の人も「様」を付けて呼んでいるし、華族だと聞いたから私も「様」を付けたほうがいいと思ったんだけど……  使用人じゃない、と言われてちょっと不思議な気持ちになる。  じゃあ何なんだろう……って、考えてもわかるわけないか。  私は台所に戻り、急いで自分のお茶を用意する。  とし子さんの姿はなく、お菓子はもう片付けてしまったみたいですぐには見つからなかったから、湯呑みだけ盆にのせて書斎へと戻った。 「お、お待たせしました」  書斎に入ると、昴さんはソファーに腰掛けていた。  彼は私をの方を見て、小さく首を傾げる。 「お菓子はなかったの」 「はい……あの、とし子さんの姿はもうなくて……どこにしまったのか聞いてないので」 「じゃあ僕の半分あげるよ」  と言い、昴さんはカステラをひと切れ、指でつまんだ。  そしてそれを口へと運んでいく。 「え、あ……」 「座りなよ」  彼は向かい側のソファーへと視線をやり、カステラに食らいついた。  ……突拍子もない人だな……  そう思いつつ、私は机に湯呑みを置き、ソファーに腰掛けてお盆を机の端に置いた。  昴さんはカステラの載った皿を私の前に置き、 「食べなよ」  と言い、もう一口、カステラに食いついた。  お皿にはカステラを食べる用のフォークがひとつ、添えられている。  たぶんフォークがひとつしかないから、昴さんは素手でカステラを掴んで食べてるんだろうな…… 「す、すみません、いただきます」  私は恐縮しながら頭を下げ、お皿を寄せてフォークを手に持った。 「変わりはない?」  問われて私は、首を横に振って言った。 「だ、大丈夫です。あの、色々と教えてもらいましたし……」  家事のことや郵便物の仕分け。昴さんが帰られたらお茶とお菓子を必ず出すこと。  そんなことを教わったけど、午後は本当にすることがないらしい。  私も離れのお手伝いをしたい、と言ったけどそれは断られてしまった。  このお屋敷の家事だけ覚えればいいと。  離れはとし子さんたち家族の住む空間だから手出し無用、ということだ。  そう言われたら私は何にも言えない。  でも、お風呂や食事は離れでと言われたし何にもしなくていいと言われるとどうしたらいいのかわからなくなる。  とし子さんは感情の起伏が少ないけど、意地悪はしないし怒らない。  前の奉公先の人たちとはぜんぜん違う。  前は怒られること、多かったなあ…… 「でも……することが無くなると何したらいいのかがわからなくて……」  言いながら私はカステラを見つめる。  奉公先のお店ではずっとすることがあった。  でもここではすることが少ない。  それだと自分の価値がわからなくなってしまう。 「ずっとお店で働いてたの?」  その言葉に、私は頷く。 「八歳から奉公に出されて……ずっと毎日働いてました」 「だから自分で考えて行動できないってことなのか」  そんな昴さんの言葉がぐさり、と刺さる。  刺さるけど……でも事実だ。  人に使われて生きてきた私には、自分で考えて行動するのがとても難しい。 「遊女たちはカルタしたり本読んだり、三味線弾いたりして過ごしてるみたいだけど」 「わ、私……字はあんまり読めなくて……」  ひらがなとカタカナは読める。  でも漢字はあんまり知らない。  小学校に行っていたけど、すぐやめちゃったからだ。  もちろん三味線もできない。  できるのは家事だけだ。 「昨日、お店の品書きは読めてたでしょ」 「あれは、カタカナだったから……でも、漢字はあんまりわかんないんです……」 「京佳がまた君を買い物に連れていきたいって言ってたけど。なにか受け取りに行くとかなんとか」 「あ……着物……仕立てたからそれを取りに行くのかと思います」  二週間くらいかかると言われたから、その時また一緒に店に行こうと、京佳さんに言われたっけ。 「何をしたらいいかわからなければ、京佳に会いに行ったら。君のこと気にしていたから」 「え、そ、そうなんですか……?」  言いながら私は顔をあげた。  昴さんは、カステラを食べ尽くし、ちり紙で指をぬぐっている。 「昼間なら来て大丈夫だと言っていたから」  そう、なんだ……  遊女の一日、って何するのか知らないけど、自由なんてないと思ってた。  わりと大丈夫……なのかな?    外か……  でも私、ひとりであの遊郭までたどり着けるかな……  漢字、わかんないから道に迷いそうだし、人さらいの話も聞いちゃったしな…… 「あの、とし子さんから聞いたんですが、人さらいが出るって」 「あぁ……その事」  昴さんの声が冷たく響く。 「毎日出るわけじゃないし、出るのはたぶんしばらく先だよ。それは定期的に現れてるみたいだから……次は捕まえるさ」  昴さんの物言いから、その人さらいがあやかしの類では、と思い至る。  ってことは昴さんにはその人さらいの正体がわかってる、ってことなのかな。 「じゃあその人さらいって……」 「人じゃないし、たぶん攫われた人はもう生きていないよ。だから急ぐ必要もないし、出る日は決まってるから今できることはないんだ」  さらりと言われ、私の背中に冷たい汗が流れていく。  妖怪、幽霊、あやかし……  つまりはそう言う存在が人をさらっている、ってことだよね?  そして生きてないっていうと……それはそれで怖すぎる。 「今日、軍部で頼まれたやつも片付けないとだし、他にも仕事は詰まってて……まずは今日の夜のやつをやらないとなんだ」 「夜の、やつ……?」  昴さんは湯呑を手にして、じっとその中身を見つめた。 「行けばわかるよ。僕としては放っておいても問題ないと思うんだけど、気味が悪いから早くどうにかしてくれと言われてて」 「そう、なんですか……」  いったいどんな相手なんだろう。  人を喰う怖いやつじゃないといいけど。
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