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背後からの足音が瑞月の感傷を破る。彼女は咄嗟に目元を拭った。
「こちらにおられましたか」
振り返れば、柔和な顔立ちの老人が背筋を伸ばして立っている。この家に古くから勤めている使用人の田辺(たなべ)だ。彼は葬儀の間も献身的に狛江兄妹に尽くし、ふたりの精神状態を案じていた。
「中へお入りになりませんか。四月とは言え、外にいると冷えますよ」
田辺の声には慈しみが籠っている。瑞月は前髪で目元を隠した。
「大丈夫です。兄上はもちろん、私も関口(せきぐち)もまだここにおります。独りではありませんよ」
そんな、心の内を見透かしたようなことを言う。関口というのは家政婦で、田辺同様長くこの家に仕えていた。
「お寂しいなら、関口がしばらく住み込みで働かせていただけないかと申しておりました。彼女ならお嬢様も安心でしょう。そうしてみてはいかがですか?」
「……いい。違うの」
関口がいてくれたからといって、この悲しみは癒されない。心にぽっかりと開いてしまった大穴は、何を以てしても埋められないのだと、瑞月にはわかっていた。
「ねえ、田辺」
「なんでしょうか」
「どうしてお父さんは亡くなったの? 何か田辺なら知っていることがあるんじゃない?」
「お嬢様」
田辺は絞り出すような溜息を吐いた。
「それは前にお伝えした通りです。お父上は野犬か何かに――」
「そんなはずない!」
瑞月は遺骨をきつく抱き締めて一歩踏み出した。
「ありえないじゃない、野犬なんて。この家はどこも高い塀で囲われているのよ? いくら動物でも入って来れやしないわ」
「熊か猿かもしれませんね。小型の熊ならば木に登れますよ」
「だから、違うって言ってるでしょう!」
瑞月はハッとして口を噤んだ。田辺の悲しげな瞳と目が合ったのだ。瑞月は自分の中で怒りが萎んでいくのを感じた。
「……ごめんなさい。八つ当たりだったわ」
「いいんですよ、お嬢様。それでお嬢様の気が少しでも晴れるなら、田辺はいくらでもお受けしますから」
「……ありがとう」
惨めな気分だった。罪のない田辺にまで気を遣わせて。けれど、この遣る瀬ない想いをぶつけるべき相手は、腕の中で骨になって黙り込んでいる。
「さ、参りましょう。お父上もお外では寒いとおっしゃっているかもしれませんよ」
田辺が瑞月の肩を抱いた。仕事熱心な彼はいつでも少し埃臭かった。
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