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耳にこびり付く田辺の絶叫。そんなもの、選択肢はないではないか。
瑞月は決心した。扉に手を掛け、今一度深呼吸をひとつ。
「……いいわ。あなたと契約してあげる。だから、田辺を助けて」
「承知した」
声は愉悦に満ちていた。
おそるおそる引き戸を開ける。視界に入る黒い着物。すらりと背が高く、瑞月の身長では首を上に曲げなければならなかった。
そこにいたのは、息を呑むほどに美しい青年だった。面長の輪郭は抜けるほどに白く、切り付けたような琥珀色の双眸に惹き付けられる。彼は黒い爪でゆっくりと宙を握り締めて笑った。
「付いてこい」
男は踵を返して離れを出て行った。どんな歩き方をしているのか、大股な歩調に反して足音がしない。瑞月も慌てて後を追う。
離れていたのは数分の間だったが、田辺はまだ持ちこたえていた。屋敷神の社を盾に身を隠し、四方に警戒の目を光らせている。その手足は無惨に引き裂かれ、足元には真っ赤な池を作っていた。
対峙する姿なき獣たちもまだその場に留まっていた。屋敷神を前に躊躇っているのか、威嚇するような唸り声だけが辺りに響いている。
黒い着物の青年は姿なき獣たちの前でぴたりと足を止めた。肩越しに瑞月を振り返る。
「契約の印が必要だ。俺様に名を寄越せ」
「な、名前……?」
追い付いた瑞月は彼の背に隠れるようにして田辺の方を窺った。それまで警戒の色を浮かべていた彼が、こちらを見て絶望に顔色を変えたのはなぜだろう。
「なんでもいい。お前が決めろ」
瑞月は青年を見上げた。琥珀の瞳と結び付く。
「――朔」
言葉は勝手に口から出ていた。
まるで初めからその名を知っていたかのように。
「朔か。悪くない」
青年が一歩踏み出した。途端に黒衣が帯のように解け、青年の後に棚引いた。訳もわからぬまま目を覆う瑞月の視界を鉄黒色が埋め尽くす。
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