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「おーい」
「おーい」
「おーいって、言ってんだろ」
変声器を通したような男の声。ザラついたその声はあまりにも恐ろしく、咄嗟に悲鳴を飲み込むことはできたけれど、奏流の足は止まってしまった。
姿の見えない「何か」が奏流を取り囲んだ。擦れるような笑い声が四方から聞こえてくる。そこに混じる愉悦は彼を追い詰めたことを確信していた。
その時だった。
咆哮が奏流の耳を劈いた。
犬などではない。それは高く、伸びやかで、誇り高い。テレビでしか聞いたことのない、狼の遠吠えに似ていた。
一迅の風が吹く。前方から旋風のような何かが迫っていた。風の塊は見る見るうちに脚を生やし、耳を生やし、数頭の狼の群れとなった。目の前の光景が理解できず、逃げなければと思いはしたが、奏流は指一本動かすことができなかった。
狼の群れが衝突する。奏流は身を硬くして衝撃に供えた――が、それは再び緩やかな疾風となって彼の左右を過ぎ去っただけだった。
奏流はハッと顔を上げた。辺りの空気が変わっていた。止めていた息を吐き出すと、今さらのように新緑の香りが鼻腔に入ってきた。あの身も凍るような冷気は姿を消している。
「――大丈夫?」
声が聞こえた。少女の声。それは間違いなく現実の声であり、奏流も知っている声だった。
「松野江くん、だったわね。間に合ってよかった」
緩やかな風が長い黒髪を揺らした。紺のセーラー服は奏流と同じ高校のものだ。琥珀色の瞳が彼を射抜き、薄い唇が皮肉げな笑みを浮かべる。
「このままじゃ危険よ。その怪異、食べさせてもらうわ」
狛江瑞月(こまえ みずき)はそう言って指を突き付けた。
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