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「父の葬儀のあと、あなたは私と田辺を助けてくれたわね。姿なき獣から。でも――ねえ、朔。教えてちょうだい。あの獣たちはどこから入ってきたの?」
田辺は決して戸締りを怠らない男だ。彼が狗神のことを知っていたことを考え合わせると、この家の結界のことを知っていても不思議はない。それならば、あの日も当然門は閉ざされていたはずなのだ。にもかかわらず、怪異が現れたということは。
朔の返答は、言葉ではなかった。黒く長い爪を蚊帳に掛け、真っ直ぐに引き下ろす。裂けた口から彼が体を滑り込ませると、退魔札はあっさりと剥がれ落ちた。
「……!」
「君はまだまだ霊力の練り方を知らないね。生まれついての力は強いのだから、これから励めばいいのだけどね」
瑞月は布団から出ようとした。が、朔が跨る方が一瞬早く、彼女は男の足の間で無防備な姿を晒すことになってしまった。
薄く微笑む朔の顔は。
いつになく優しく、そして、残酷だった。
「その通りだ、瑞月。あの獣は俺が呼んだ眷属だ」
急激な喉の渇き。闇の中で見る朔の双眸は、満月のごとき光を放っていた。
「どうして、そんなこと」
「茶番だよ。瑞月がどんな娘かは知っていた。正義感が強く、真面目で他人をほっとけないお人好し。そんな君に契約を結ばせるなら、あの状況が一番手っ取り早いと思ったんだ」
すべては彼のシナリオ通りだったということか。瑞月は黙って目を伏せた。
「怒らないのかい? 嘆いて、抗議することは?」
「……しないわ。そんな無駄なこと」
「諦観しているね」
「違うわ。あなたに、同情しているの」
朔がゆっくり目を見開く。
「同情?」
「ええ。あなただって、父を殺したくはなかったはずよ」
狗神はせせら笑った。
「どうしてそう思う? 俺と彼の間に感動的な友情があったと信じたいのかい?」
「そんなこと知らないわ。ただ、あなたはもといた世界に帰りたいんだと思ったの。もう何百年もこっちの世界に拘束されている――一刻も早く霊力を溜めて封印を解きたいのに、またしてもパートナーを更新しなければならない。長く、長く繰り返されてきたやり取りに、あなたはきっとうんざりしてる」
朔は驚いたように口を結び。それから大きな声で笑いだした。その哄笑は庭で響く断末魔と混じり合い、ひとつの大きなうねりとなって部屋に響いた。
「残念ね。次のパートナーがこんな小娘で」
「まったくだ。知っているかい、瑞月? 狗神憑きの血筋が絶えるとどうなるか。俺は二度と常世に帰れなくなる。そうなればきっと、腹癒せに人間を喰って喰って、喰いまくるだろうさ」
瑞月は穏やかに微笑んだ。
「それなら、当分私を殺せないわね?」
「皮肉なことに。だから安心しろ、狛江瑞月。俺様は何があってもお前を死なせない――この命に代えようとも」
それほどまでに、彼にとって現世で生きることは苦痛なのだろう。その顔に過った刹那的な悲しみを瑞月は見逃しはしなかった。
彼女は抱擁を求めるように両手を差し伸べた。
「じゃあ、お願い。力を貸して」
「もちろん。なんでも言ってみるといい」
「私ね、仇を討ちたいの。外にいる『アレ』――アイツの本体を食べてやってちょうだい」
彼は彼女を抱き起す。
「仰せのままに、ご主人様」
見つめ合う二人には、初めて何かが通じ合っていた。
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