4.シビト

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 一歩進むごとに異臭がきつくなる。洞窟は緩やかな下り坂となっており、入口から差し込む日差しの中に、瑞月の影が伸びていた。  目が慣れても、剥き出しの岩肌以外に視界に入るものはない。すぐに日が奥まで届かなくなり、瑞月はスマートフォンで足元を照らさなければならなくなった。  ざーん、ざざーんと、波の音。  それが頭上から聞こえ始めた時、海面より下へと潜ったことに気が付いた。音はやがて地鳴りのようになり、姿なき怪物の妄想を掻き立てた。  この洞穴の奥には何がいるのか。それがどんな怪異なのか、瑞月は聞いていなかったことを思い出した。蛆虫、と朔は言っていたけれど、本当に虫のような姿なのだろうか。  ふいに、前方に光が差した。慌ててスマートフォンを伏せると、確かに上から光の柱が降り注いでいた。どうやら広い竪穴のようになっており、それが地上に通じているらしい。  その光の輪の中に、静かに座する影を見た。  はじめ、瑞月はそれを観音像か何かだと思った。だが、違った。それは瑞月もよく知る姿――記憶の中の姿は薄れ、写真から焼き付いた幻影だけがありありと思い浮かぶ。  母がそこにいた。  長い髪を肩に垂らし、薄っすらと口元に笑みを湛えた、狛江春美(こまえ はるみ)がそこにいた。 「お母……さん……?」  思わず漏れた声。春美はこちらに気付いて一層微笑みを深くする。 「どうして……お母さんが……」  だって、母はずっと昔に死んだのだ。死因は病死だったと聞く。それなのに、目の前には写真と瓜二つの母の姿が、実体を持ってそこにいるのだ。  瑞月はその場に立ち尽くした。感動と戸惑いがせめぎ合い、あと一歩を踏み出すことができなかった。手を伸ばせば届くかもしれない距離に、あんなにも恋焦がれた母がいるというのに。 「……瑞月」  母の口が動く。  薄れた記憶の中で何度も思い起こした、柔らかい母の声だった。 「瑞月、おいで」  その声を聞いただけで、瑞月の目は熱を持った。喉の奥が窄まり、体の奥からせり上がる。無意識のうちに、瑞月は手を差し出していた。 「そうよ、瑞月。おいで」  差し伸べた手を。  何かがクンッと引っ張った。
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