4.シビト

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「あっ」  胸元が熱い。咄嗟に懐に手をやって、瑞月は我に返った。 「……なるほどね」 「瑞月?」  母が首を傾げている。瑞月は出した腕を引っ込めて、きつく胸元で握り締めた。 「同じ轍を踏むなって、そういうこと。だからお父さんは失敗したんだわ」 「瑞月、何を言ってるの?」 「父の時も同じことをしたのでしょう。お母さんの姿を偽って。お父さんがお母さんを手に掛けられるはずがないもの」 「やめなさい、瑞月。そんな話は聞きたくないわ」 「いいえ。やめないわ」 「いいからおいで、可愛い瑞月」  おいで。おいで。おいで。  春美が両手を差し伸べる。その瞬間、彼女の口からゴポリと大量の血が吹き出した。 「瑞月、おいでええぇぇぇぇぇ――……っ!」  血液と共に溢れ出してきたモノは。  何本もの腕、腕、腕。  瑞月は踵を返して駆け出した。スマートフォンの光が揺れる。もはや前を照らす余裕はない。転げるように、這うように、瑞月は必死で坂道を駆け上った。 「瑞月、瑞月、瑞月、み月、瑞キ、みずキ、瑞月、みずき、ミズキィィィィ――ッ」  背後から聞こえる轟音。潮騒よりもザラついた、耳障りな怪物の奇声が洞窟に反響していた。それは瑞月を物理的にも精神的にも追い立てる。  心臓の鼓動が速く、速くと急かしていた。口の中には血の味がして、籠った息が茨の塊のように体の中を転がった。視界が絶えず揺れるのは、足元の凹凸のせいなのか、滲んだ涙のせいなのか、わからない。  無我夢中で走り続けるうち、前方に光が見えた。  ゴールだ。  安堵と眩しさで一層目が潤む。しかし、安心したのも束の間。なびく彼女の長い髪を、怪物の触手のような腕が掠めたのだ。  怪物はすぐ傍まで迫っていた。目の前には打ち付けられた板。瑞月は咄嗟に懐から退魔札を取り出し、封筒ごと怪異目掛けて投げ付けた。 「ぐぎゃああああぁぁぁぁぁ――……ッ!」  絶叫。鼓膜を破らんばかりに震わせる。その隙に瑞月は交差された板の下をくぐり抜け、再び日のもとへと飛び出した。 「でかした、瑞月!」  朔が狼の姿で躍り出る。それと同時に、激昂した怪物が板を突き破って現れた。朔は黒い弾丸のごとく疾走し、怪異へと襲い掛かった。  瑞月は恐怖から足を止めることができず、かなり離れたところまで逃げてようやく振り返ることができた。そこで初めて目の当たりにする怪異の姿。シビト、という呼び名の通り、それは人間のような形をしていた――体の一部分は。沢山のゴム人形を団子にして固めたような、歪な外見。口と思しき大穴からは何本もの腕が触手のように生え、ナマコのような胴体には無数の人の顔らしきものが付いている。それらは攻撃を受けるたびに絶叫を上げ、牙を立てる朔の体に手当たり次第に噛み付いていた。  あまりに醜悪なその姿に、瑞月は改めて吐き気が込み上げるのを感じた。守るものがなくなった今、瘴気による汚染も彼女を襲う。瑞月は堪らず岩陰に膝をつき、胃袋の中身を吐き出した。  脅威は彼女にも向かっていた。やっとのことで嘔吐から立ち直った瑞月は、今度は恐怖の悲鳴を上げる。海の方から何かが這い上って来るのだ。蒼白くブヨブヨした姿は白子のようにも見える。だが、そこには確かに手足らしきものが生えていて、魚に啄まれたのであろうボロボロの筋繊維を引き摺りながら瑞月に向かって手を伸ばすのだった。  助けを求めて振り返る。が、朔は今まさに怪物にトドメを刺しているところであり、食事に夢中でこちらに気付きそうもない。瑞月は決心して、傍に落ちていた流木をこん棒のように構えた。 「掛かって来なさい、このバケモノッ!」  瑞月は無心で流木を振り下ろした。
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