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1.ヤマビコ
『ソレ』に答えたのは、それまでたった一度だけだった。
だが、今思えば、そもそもそれがいけなかったのだ。
松野江奏流(まつのえ かなる)は忙しなく足を運びながら、手の平に滲んだ汗を握り込んだ。一歩足を進めるたびに、心音も速度を増していく。荒げた息は塊となって顔に掛かり、彼の鼻先を湿らせた。五月も半ば、そろそろ上着がいらなくなる頃だが、奏流の全身は真冬のように冷え切っていた。
「おーい」
奏流はビクリと身を縮める。背後を振り返りたくなる衝動を必死で押さえ付けた。
その声は学校を出た辺りからぽつぽつと聞こえるようになっていた。
「おーい」
はじめは男の声に聞こえた。校門を出て少しのところにある交差点での出来事だったので、クラスメイトか誰かに呼ばれたのだと思ったが、振り返って見てもこちらに呼び掛けようとしている者はひとりも見当たらなかった。首を傾げて歩き出すと、再び声が聞こえた。
「おーい」
今度は女の声だった。
幻聴かとも思ったが、なんとなく気味が悪く思い、その日は走って帰ったのだった。
次の日も、その次の日も、声は聞こえた。決まって学校の帰り道。帰宅部の奏流は放課後早々に帰路に就くが、その人気もまばらな通学路に、虚ろな声が響くのだ。
「おーい」
「おーい」
「おーい」
日を追うごとに声の間隔は狭まっている。それだけではない。声の質さえも変化し、男の声に女の声、子どもから老人まで、様々な声音で聞こえるようになっていた。依然として声の主はわからないが、それはまるでどの声ならば奏流が振り返ってくれるのか、試しているかのようだった。
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