パンの香りと腹の虫

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 ***  普段はサークルの仲間とお昼を食べるが、水曜日だけは大教室で食べる。授業は一時間後で、昼休みから行く必要はない。けれど僕にはある。前の講義を受けている彼と唯一すれ違えるチャンスだから。  でもまさか、こんなことになるなんて思わなかった。 「好きです。付き合ってください」  差し出された右手と下げられた頭。一体何が起きているのか。告白されたってこと? 僕が? 彼に? まさか、そんな夢みたいなこと……。  ここは大学内で。ドアの隙間からは柔らかな風が流れていて。手にした袋の重みも、床の硬さも現実だ。恐る恐る握っていた右手を解く。目の前の手を握ろうと、動いた、そのとき。  ぐるるるるぅぅきゅるるるるぅぅ。  教室中に響き渡るほど大きな音が鳴った。ここには僕と彼しかいない。確かめるまでもなく、彼のお腹が鳴ったのだ。  いつも見上げる位置にある彼の耳が、首が、赤く染まっていく。こんなにも近くで見たのは初めてで。きゅっと胸の奥が縮む。滲んだのは確かな熱。その瞬間、気になるだけだった彼のことが、好きなのだと確信した。 「えっと……」  確信してしまったからこそ、声が揺れる。差し出しかけた手は中途半端に浮いたまま。カサリ、ともう一方の手の中で乾いた音が鳴る。香ばしいパンの香りが流れてくる。ああ、そうか。縮んだ胸の奥を広げるように静かに息を吸う。危ない。勘違いするところだった。 「あの」 「……はい」  勘違いしなくてよかったぁぁぁ。 「美味しい」と繰り返しながらパンを頬張る彼を見つめる。彼が僕を好きだなんて、そんな都合のいいことあるわけなかった。よかった。勘違いで返事をしなくて。  開かれる大きな口。リスのように膨らむ頬。リズム良く繰り返される咀嚼。パンの油で輝く薄い唇。コクン、と動く喉仏。一瞬遅れて、花が開くように表情が明るくなる。本当にパンが好きなんだな。  美味しく食べてもらえて嬉しいはずなのに、なぜか胸がざわつく。一瞬でももってしまった期待を手放せない自分がいる。パンが羨ましいなんて、おかしなことを思ってしまうくらいに、僕は彼が好きだった。  机に並んだひとつを自分も手に取り、口へと運ぶ。が、味はよくわからない。食べ慣れ過ぎているからではなく、パンの香りよりも目の前の彼のことで胸がいっぱいだった。 「あのさ」  気づけば声は飛び出していた。 「もしよかったら」  今日だけで終わりたくない。 「これから……」  向けられた視線に用意していた言葉が震える。  美味しいと笑っていた表情ではなく、静かに言葉を待つ真剣な表情。「これからも一緒に食べよう」と言ったら、断られるだろうか。彼が好きなのは僕ではなくて――。 「これから、うちでバイトしない?」  昨日両親と話していたことを思い出し、言葉をすり替える。 「いま人手不足でさ、ちょうど探してて。夜の時間だったら、廃棄のパン持ち帰っていいし。どうかな?」  すり替える前の言葉を知られるのがこわくて早口になってしまった。彼は少しだけ目を丸くしたが、遮ることなく聞いてくれた。 「バイト……」 「あ、急にごめんね。都合悪かったら全然断っ」 「やります! やらせてください!」  被せるように返事が返ってきて、驚きつつもホッとする。断られなくてよかった。これで学校以外でも会えるようになる。もっと話せるかもしれない。  嬉しさが込み上げてきて、思わず心のままに言ってしまった。 「よかった。よろしくね、(りつ)くん」 「はい! よろしくお願いします、英二(えいじ)さん」  再び差し出された手を握り、ふと、気づいた。おそらく同時に。 「「なんで、名前……」」  ぐるるるるううぅきゅるるるる。  重なった声を掻き消すように、再び彼のお腹が鳴り、答えを探すよりも先に笑い声が重なった。
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