別れ

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別れ

 秋のある日、僕は仕事を早く切り上げ、行きつけの喫茶店に駆け込んだ。  若いウェイトレスが驚いた顔をする。閉店間際だったため、誰も来ないと思っていたのだろう。  口下手な僕だが、かろうじて「……すみません、一杯だけ」と声を絞り出す。すると彼女は、ぱぁっと表情をほころばせた。 「いらっしゃいませ」  奥から二番目の窓際席に案内される。物静かな老齢のマスターが、普段どおり美味しいコーヒーを出してくれた。  ひとくち飲んだところで閉店時間になる。けれど彼らは、営業中と同様に過ごさせてくれた。  短いような長いような十分あまりが過ぎ、僕は席を立って勘定を済ませた。  彼らになにかを言わなければならない気がする。でも胸が詰まるばかりで、言葉にできなかった。  二人が笑顔で「ありがとうございました」と見送る。その瞬間、自分の引っ込み思案な性格など、どうでもよくなった。  彼らにとって僕は、ちゃんと『一人のお客さま』だったのだ。  春の息吹が聞こえるころ、その場所を訪ねた。  さまざまな花が咲きはじめる景色のなかで、あの喫茶店だけが消えた。初めからなにもなかったように、更地が横たわる。  マスターの引退とともに店はたたまれ、ウェイトレスは寿命を迎えて永遠の眠りについた。  彼女は、アンドロイドだった。  身内だけで葬儀のようなものが営まれたという。人形も天に召されるのだろうか。  目を閉じれば、彼女が「いらっしゃいませ」と店内に招き入れる。コーヒーを運んで「ごゆっくり」と会釈し、清算後には「ありがとうございました」と見送る。  僕が勇気を出してなんらかの行動を起こしたら、べつの表情を見せてくれただろうか。いまとなっては、届かない。  僕の胸から、とめどなく思慕がこぼれ落ちていった。
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