出会い

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ

出会い

 かつての僕は、いまより人付き合いが苦手で、仕事場である食堂と家を行き来するだけだった。休日に引きこもっても平気なたちだから、ずっとそんなふうに生きると思った。  けれど、心のどこかで変化を求めていたのかもしれない。  ある日、一枚のチラシに目を留める。喫茶店の宣伝が、シンプルな文章でなされていた。 『アンティークの小物で店を飾っています』  その一文に惹かれた。  だが固定された日々を送る僕に、訪ねる勇気はなかった。通勤時に通る道から、さほど遠くない。でも、すこし違うルートを辿ることさえ怖い。  仕事仲間が喫茶店の噂をしていて、思わず聞き耳を立てた。珍しく古本屋に足を運んだとき、カウンターの横に例のチラシが置いてあって、なんだか呼ばれている気がした。  休日になり、三十分ほど悩んだあげく、昼すぎに家を出た。意気地のない僕は、道に迷うことを期待したが、目的の場所はすぐ見つかった。  コルク色のレンガの壁と、チョコレート色の扉。鉢植えの花が彩りを添える。落ち着いた空気が漂い、僕はその中へ引き寄せられた。  店内に足を踏み入れると、カウンターの向こうにいた老齢のマスターが、角の席をそっと示した。僕はコーヒーを注文する。周囲を見回すと、こじんまりした店に、いくつものアンティークがセンスよく配置されていた。  意匠の細かい置時計、重厚なキャンドルスタンド、壁にかけられたランタン、オペラグラスや地球儀などなど。趣味の世界がギュッと凝縮されている。  僕には手が届かない代物なので、眺めるだけでワクワクした。  そのとき、若いウェイトレスがコーヒーを運んできた。僕が入店したときは、ほかで接客中だったらしい。白い肌に、大きなサファイアの瞳、ミルクティー色の長い髪を三つ編みでまとめている。ふんわりやさしい雰囲気だ。  ぱっと見では人と見間違えそうだが、アンドロイドだとすぐに分かった。  彼女がにっこり笑いかける。 「ごゆっくりどうぞ」  僕はどぎまぎして返事もできない。相手は気にするでもなく、会釈して去った。  口にしたコーヒーは、すばらしく芳醇だった。もっと早く来ればよかった、と後悔する。  中途半端な時間のためか、客はすくなく、マスターとウェイトレスの立てるわずかな物音が、静けさを深める。ジャズがゆったり流れている。ひどく居心地のいい空間が、僕の緊張をほぐした。  翌日も翌々日も、仕事帰りに足を運んだ。僕にしてみれば驚くべき事態だ。  仕事のあとだと閉店まで間がないと気付き、休日ごとに通った。ほかの客は会話を弾ませたり、本を読んだりして、くつろいでいる。自分もその場に同化したみたいだった。  いつしか常連となったころ、ある自分に気付く。  軽やかな声が聞こえるたび耳を澄まし、柔らかな表情の横顔を眺め、足音がどこへ向かうのか感じ取る。  そのくせ、彼女と相対してもまともに目を見られない。まぶしい笑みを向けられると、どうしようもなく舞い上がった。  分かっている。彼女は誰とでも同じように接する。違う感情があるとすれば、マスターへの親愛だけ。  それでも彼女に惹かれていく。コーヒーを味わい、アンティークを眺めながら、ほんとうはあの子を一目見たいがために通った。  サファイアの瞳はくるくる表情を変える。ミルクティー色の髪はつややかで、前髪がさらさら揺れる。言葉にテンポがあるし、聞こえてくる会話のセンスもいい。  マスターや客は彼女をかわいがり、彼女も楽しそうに働く。  僕は喫茶店に足しげく通いながら、注文と清算のとき以外は彼女と話せなかった。  おそらく彼女のプログラムには、話好きな客とはお喋りし、静けさを好む客はそっとしておく、とインプットされているのだろう。僕はうまく会話をする自信がないから、ありがたい。  ただ、ほかの客と楽しそうにやり取りするところを見ると、胸が痛んだ。  僕は休日の憩いを励みに、日々を暮らすようになった。ときに落ち込み、逃げ出したくなっても、また彼女に会えると思うと、乗り越えていけた。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!