変化

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変化

 しばらくして食堂を辞め、小さな菓子店を開いた。対人スキルの低い僕にとって無謀な挑戦だが、夢を諦めきれなかったのだ。 「ダメだったら戻ってくればいい」  食堂の主人や仲間に背中を押された。  初めは無我夢中だった。一度チラシを出したら予想以上のお客さんが訪れ、怯みながらも必死に対応した。人との関りが下手だとか、そんなことに頓着するゆとりもなかった。  材料を仕入れ、作って売る。ネジを巻かれたように、お菓子のアイディアが次々と湧く。いくつかを商品化し、おおむね好評だった。  厳しい批評を受ける日もあった。でも、多くの人はあたたかく認めてくれた。「誰も来ないまま店をたたむのでは」と危惧しただけに、予想外の事態に驚く。  期待に応えたい、がんばろう。  休日を返上して働きづくめでも、つらいなんて思わなかった。自分の足で歩んでいるという実感に、満たされた。  あっという間に二ヶ月が過ぎる。  久しぶりの休みを得て、喫茶店に行きたくてたまらなくなった。足を運ぶと、彼女もマスターも前と同じように迎えてくれた。  しかし、ホッとしたのも束の間、ほかの客の会話に衝撃を受ける。「この店があと一ヶ月で営業を終了する」と。さすがに聞き流すことができず、僕は経緯を尋ねた。  マスターは高齢のため、サービスを提供しつづけることが厳しくなった。ウェイトレスの彼女も耐用年数を超え、小さな不具合が出始めた。それらの事情から、「頃合いだ」とマスターが決断したらしい。  アンティークは中古ショップに引き取られる。  彼女は、アンドロイドの規約に従って処分される。回収業者に託す方法もあるが、マスターは家族として葬ることに決めた。  暴走する危険を排すため、神経を焼き切る『廃体』を施し、記憶(メモリ)を抜き取る。それから棺桶に入れて、土中に埋めるのだ。  彼女はすでに、自分の未来を知っている。そんなことをみじんも感じさせず、笑顔で店の空気を和やかにする。  人形だから、感情の切り替えは難しくないのかもしれない。それでも僕は、明るい横顔を窺うと胸が締めつけられた。  店も彼らも、ずっとここに存在すると思っていた。ほかの可能性は考えなかった。近い将来、すべて失われるなんて、悪い冗談に違いない。  僕はしばらく来られなかったけれど、彼女が元気に働くさまを想像するだけで、心があたたかくなった。なのに、二度と会えなくなるなんて……。  初めて、コーヒーを残したまま席を立った。ぼんやりしていたせいで、危うく会計を忘れかけ、彼女に引き止められた。  そのやさしい声も、まぶしい姿も、愛らしい表情も、僕をつらくさせた。
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