喪失

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喪失

 休み明け、菓子作りに励みながら、喫茶店に行く気力を失っていた。  彼女に会いたい。コーヒーを味わって、あの店の空気に浸りたい。でも、どうしたって哀しい気持ちにさいなまれる。あの場所がいつもと同じであればあるほど、未来が残酷にせまる。  この運命を変えられるなら、なにを捧げたってかまわないのに。  休みがくると、ベッドから起きるのも億劫だった。けれど身支度を整え、通いなれた道を辿った。彼女に明るく迎えられ、最高のコーヒーを口にする。  次の休日もそうした。  閉店を残念がる常連客に、彼女は朗らかに応じる。初めて会ったころと変わらない。ちっとも悪くなっていないじゃないか。  でも僕は四六時中、彼女を見ているわけじゃない。不具合が出ながらも、店では迷惑がかからないよう、マスターが気を配っているのかもしれない。  僕はいつもどおり過ごすのが精一杯だった。せめて、ありがとうと伝えたかった。その言葉は喉に詰まって、声にならなかった。  閉店前の最終日は、お別れパーティーが開かれたという。僕は菓子店の仕事に打ち込んだ。わずかな暇もないぐらい忙しくしていたかった。  休日だったとしても、出向くことはできなかっただろう。僕だって常連客の一人だ。でも、その場にいて、最後まで笑っていられる自信がなかった。  いや、感情がこぼれても、それは恥ずかしいことじゃない。誰も笑ったりしない。だが、こうしてべつべつの場所にいることを選んだ。  ずっとあの店を、そして彼女を想いながら。  しばらく、休日のたび哀しかった。一緒に暮らしはじめた猫が出かけてしまうと、あてどもなく街をさまよう。  菓子店は順調で、日々の仕事はやりがいがある。けれど欠落は埋められない。  ずいぶんあとになって、喫茶店の常連客が、偶然にも僕の店を訪れた。自然と、かつての話題になる。僕は未だくすぶる感情を抱きつつも、懐古を口にすることができた。あれから一年半がたっていた。  あるとき、ふと思いついて、彼女をイメージしたお菓子を作った。じんわり甘いそれは評判がよく、僕はまたひとつ自信を得た。  僕たちのあいだにあったのは、ウェイトレスと客という関係だけ。でも、彼女は僕の中で生きている。  新作のお菓子がみんなを喜ばせたのは、あの出会いがあったから。僕がここにいるかぎり、形にならないものはいくつも残っていた。
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