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そして大学時代の失恋話を語った。私小説としてもっとリアルに書いたならば、きっと問題作となって大衆受けはしなかっただろうと笑う。それくらい、劇的な恋愛だったと匂わした。更には、いまの奥さんには「人生という物語を一緒に創っていこうよ」とプロポーズしたのだと惚気た。
最後まで、私が期待した話は何も出なかった。出身が仙台であることも、浪人したことも、私に振られたことも、何一つ、彼は触れなかった。
私は、何を期待して来たのだろう。
心躍らせて繰り出してきた自分が、愚かでみじめで無様に思えた。
おめでとう。よかったね。
もし今会って話せるのであれば、それしか言えない。
ずっと伝えたかったこと
――大好きだった
――ごめんね
――ありがとう
それはもう永遠に彼には届けられない言葉なのだと改めて認識した。
また、会えたね。
現実の世界で、また会えて嬉しかった。でも、遠くから見るだけで、帰るね。
さようなら、里中君。
彼が創り続けてきた、心の思い出アルバムのページには、私が知らない冒険や恋物語の名場面がたくさん貼られているのだろう。もう彼は古いページは破り捨ててしまったのかもしれない。もしかすると、とっくの昔に。
あの夏の日、あなたは時が止まった世界に生きている人のように見えた。でも、今は違う。時が止まった世界に逃げ込んでいたのは私だった。
もう、夢で会うこともないのだろう。
夢を叶えた、33歳のあなたを見届けて、過ぎ去った年月を思い知った。
***
夕飯はどうするつもりかと上野から電車に乗る時に夫にLINEを送った。大宮を過ぎても既読にならなかった。
夜の車窓に映った自分の顔がいつも以上に老けて見えた。つり革をつかんだ両手の上に額をつけた。目を閉じると、あの深緑のケヤキ並木が思い出された。
【完】
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