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夜半である
満開の桜が月光に照らされて、花びらが怪しく輝きながら散っていく
「綺麗ね」
と楓が言った
「デート日和だな」
と楠木正尚が答えた
正尚は楠木正成の甥である
優男で剣術が巧みであった為、戦場には行かず、御所の護衛をしている
歌など詠んだりして、変な武士なのである
「デートなら、その辺で少し休んで行こうよ」
楓が言う
二人は許嫁同士だ
「いちゃつきたい処ではあるが、先を急ごう」
「なによ。デートとか言いながら、何かあるのね」
「うん。鵺が鳴くんだな。不気味な声で。お上が気味悪がっておられるから、様子を見てきてくれいと頼まれたんだ」
「鵺、ぬえ、鵺。そんなの相手にあたしを連れて行こうなんて、酷くない?」
楓が怒ってみせる
「鵺ってなあ、猿顔で虎の手足が付いてて尾が蛇の狸だというんだな」
「へんなの」
「別の話では羽があって空を飛ぶと言うものもある。なら、俺だけでは不安だなあと思ってな。楓は弓の達人だから心強いだろ」
「弓持って来いなんて言うから、そんなことだろうと思っていたけど・・・
けど、鵺なんてあたし達で倒せる?」
「鵺なんか居ないと思う。余りに現実離れしてる。どうせ見つからないから問題ないだろ。だったら、月と桜が綺麗だから、楓と歩きたいと思ったわけだ」
「呆れるわね
でも、鵺の鳴き声が聞こえるんでしょう?」
「連中、神経質だからなあ、風の音にも、てやつかな」
正尚が笑った
「どんな声で鳴くのかしら?」
楓が、言いながら、耳を澄まして、はっとしたように言った
「これ?」
月光の下、降り頻る花びらの中
ヒ~ィ~、ヒ~ィ~、と怨霊の悲鳴の如き声が響いてきた
「小鳥の囀りのようには聞こえないな。一旦戻って兵を揃えるか」
正尚が怖気づいて逃げ腰になった
「馬鹿言わないで。小鳥の囀りだったら恥だわ。臆病者は夫にできない」
「そりゃ、困るな」
と声のする方におっかなびっくり進んで行くと、二十畳大の屏風岩とその前に四畳程の鬼の俎板のような平らな岩があった
鵺がその俎板岩の上にいた
首から上と、背中と蛇の尾を残して、岩の中に沈み込んでいる
その所為か、顔を月の方に向けて、ヒ~ィ~、ヒ~ィ~、と怨霊の悲鳴の如き声で泣き続けていた
楓が弓を番えて、今にも撃ちそうになっている
「待て。撃つな。事態が飲み込めない」
正尚が言うと、一旦構えを解いた
「鵺かしら?
岩に食べられてるの?
それとも、岩から生まれ出ようとしている?」
「さあ。暫し、様子を見てよう」
見ている間に、鵺が更に岩に吸い込まれていき、ただ悲痛な鳴き声ばかりが響いた
「閑かさや岩にしみ入る鵺の声」
正尚が呟いた
楓が一瞬考えて
「あたしには無理」と言った
「何が?」
「下の句」
「いや、この際、それはいいのだが・・・」
鵺がすっかり岩に染み込んでなくなり、ただ岩ばかりが残った
「人喰い岩?」
「鵺喰い岩だな。人も喰うかな?」
「試してみる?」
「いや、よそう」
その時、雷鳴が鳴り響いた
青天の霹靂
晴れ渡る空に二丈の稲妻が走った
その二丈が俎板岩の上で合わさって、真っ白な光の玉が浮き上がり爆発した
目が眩む
二人はよろよろと後退った
数分も経ってから、視界がやっと戻ってくると、俎板岩が白く光っていて、その前に娘がひとり立っているのが見えた
紫の衣に紫の袴、腰には刀、長い髪を背に束ねている
ひどく美しいが、不気味さを感じさせる
「何者?」
正尚が言った
「ここは、」と娘が背後の岩を指した「黄泉の国への通路でしたが今扉が閉じられました」
「黄泉の国なんてのがあったのか、本当に」
「勿論。死者は皆そこにやってきます」
「死者が皆か、すると凄い数になりそうだな」
正尚が否定する感じで揶揄すると、女が笑う
「黄泉の国は霊魂の洗濯場で、怨みつらみ心残りなどの存念を全て祓って綺麗にしてから現世(うつしよ)に送り返します。だから黄泉の国に霊魂が溜まり過ぎることはありません。ただ現世に未練があり過ぎて祓えない怨念を持つ者がいて、そんな者達が怨霊のまま時に現世に出て怨念を晴らすのです
その為にこの通路があるのですが、ここ何十年か、祓えない恨みを持つ者が多くて・・・
皆が一斉に戻ってしまうと現世が混乱してしまうので制限していたのですが、通路に亡者(もうじゃ)が集まり過ぎて、制限しきれなくなってきました
だから、最大の通路であるここを閉める事にしました。黄泉の国側で閉めて鍵をかけ、黄泉の国側から開けられないように、鍵を現世に投げたのです」
「そうなんだ。じゃあ問題ないわけね。だったら帰ろうよ」
楓が言う
問題がないのなら、ここは捨てて、デートに戻れるというものだ
娘のこの世ならぬ美しさに身惚れている正尚が気に喰わない
「う、、うん」
気もそぞろな言葉が返る
「いえ」と娘が言う「他の通路は開いていますから、そちらから出た者が、鍵を手に入れてこの通路を開けようとやって来るでしょう。彼らは現世で怨みを晴らそうと必死ですから
もしこの通路が開いて亡者達が大挙押し寄せれば現世は言いようのない混乱に陥ります。それをなんとしても防がねばなりません
この場にあなた方が立ち会われたのは何かの縁、運命だと思います
鍵を守ってください」
娘が深く頭を下げた
正尚が「ふんふん」と頷いた
たとえ火の中水の中、である
男は美女の頼みに弱いのだ
楓が不機嫌そうにしている
正尚がきく
「で、その鍵というのは?」
娘が正尚の目をじっと見て答えた
「あたしがその鍵です」
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