悪夢

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悪夢

 蘭がいた。  背を向けてへたり込むように座っている。声をかけたが動かない。  反応がない。 「蘭?」  一哉ちゃん。  そう呼んで振り返ることを期待して蘭の名前を呼ぶ。 「蘭ちゃん」  肩に手をかけると、崩れるように蘭の身体が倒れ込む。  目に光はない。  涙の跡だけが頬に残る。 「蘭ちゃん!?」  力なく倒れた蘭を抱き上げる。  蘭は動かないし言葉も発さない。  瞳は何も映さない。 「やだよ……名前呼んでよ、蘭ちゃん」  目から涙を溢し、一哉はひたすらに蘭の名前を呼ぶ。 ◇◇◇  嫌な夢だった。  自らの叫び声で起きるほどであった。  頬を濡らすのは、涙か冷や汗かは定かではない。  蘭を力いっぱい抱き締めて声を上げて泣いたところで悪夢から解放された。  今日は合唱部の練習がある。  朝食を食べようと部屋から出ると、清子(さやこ)が鬼みたいな怖い顔で(にら)みつける。  着崩していない橘女子高の清楚な夏服が似合う清子だが、一哉にとって清子はでしかない。 「カズ、あんた朝からうるさいわ」  清子姉に怒られた。  清子の地声は美声と褒められるほどの澄んだソプラノなのに、弟をドヤす時だけはドスがきいている。 「しょーがねえべした。嫌な夢見た」 「ははぁ、蘭ちゃんに振られた夢か?」 「それより嫌な夢」  憎まれ口を叩くはずの清子が珍しく同情のまなざしを向けるが、一哉は既に清子に背を向けて階段を降りていた。  この弟は、いつの間にか姉の身長を超えた。 「なあ、カズ」 「んー?」 「蘭ちゃんが気がかりなら(けい)ちゃんかゴウダ君に聞いたら? あと、悪い夢見たら10時までに誰かに話すと正夢にならないってさ」 ◇◇◇  台所に入ると兄が悪夢にうなされたことなど露知らず、花梨(かりん)がシリアルを美味しそうに食べている。 「おはよー」 「うっす。早いな」 「ラジオ体操さ行ってきたの。見でぇ、蚊ぁ喰わっちゃ」  清子が花梨と同じシリアルを食べながら談笑する中、一哉はイマイチ箸が進まない。  O型は蚊に喰われやすいんだと。  えー、そうなんだー。  むやみに()くなよ? 血ぃだら真っ赤になっから。  わかったー。 「兄ちゃん、食べないの?」 「合唱する時は腹いっぱい食わないの」  花梨は兄の言い訳を真に受ける。  確かにそのとおりだが、それが半分嘘の言い訳だと知っているのは清子のみ。 「姉ちゃん食って」  そう言って一哉は白飯に目玉焼きを乗せた茶碗を清子に差し出す。  茶碗の中身は半分ほどなくなっていた。  普段なら茶碗二杯は余裕でおかわりするのだが。 「バター醤油なら食欲出ると思ったけどだめだった」 「自分から作っておいて何なん? 私も合唱部の練習あるんだけど?」  あきれて悪態(あくたい)をつきながらも清子は半分減った目玉焼きご飯をかき込む。  バター醤油味は食欲をそそる。 「ねー、兄ちゃーん」  間延(まの)びした声に気付き、花梨に顔を向ける。  先ほどまでシリアルのチョコレートがしみ出てアイスココア状に成り果てた牛乳を豪快(ごうかい)に飲んでいたはずの花梨は、二重の大きな目で兄を見上げる。 「最近、蘭さん来ないねぇ」 「蘭もオーケストラで忙しいんだよ」  えー、と不満げな声。  貧乏ゆすりをするように花梨は身体を揺らして抗議する。 「私、蘭さん好きなのにぃ~。もう一人のお姉ちゃんにしたいもん。兄ちゃん、うちさ()ぉって蘭さん誘ってぇ?」  花梨。  ささやき声で呼ぶ清子は花梨に耳打ちを始める。 「カズのアホと蘭ちゃんが結婚すりゃいいんだで」と聞こえたのは言うまでもなく、一哉は耳まで真っ赤に染めて()き込んだ。
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