8人が本棚に入れています
本棚に追加
母の想い
◇◇◇
「あらあ、一哉君どしたの?」
音澤家の呼び鈴を押しても反応がなかったので、諦めて玄関に背を向けようとしたその時に快活そうな声が耳に届く。
振り返ると蘭の母親である星が紙袋を下げてこちらを見ていた。
紙袋の口からは産毛に覆われたピンクの玉が覗く。
直売所で傷みかけの桃を買い込んだのだろうと思ったが、この街では桃は買うものではなく貰うもの(または直売所で規格外を大量に安く買う)であることを思い出した。
「おはようございます。あ、桃だ! 傷みかけたのうまいっすよね!」
「よくわかってるわねぇ。桃は傷みかけが柔らかくていい香りがして最高よ。巧君は学年が離れてるから……同い年の小百合ちゃんなら知ってるかな。白沢さん家から頂いたの」
「ベティさんと白沢ですよね。知ってますよ」
白沢家の長女・小百合が蘭の幼なじみで蘭を気づかう側の人間であることも、学年が四つ上の巧がベティ・ブープのTシャツばかりを着ているので『ベティさん』と親しまれていることも一哉は知っている。
「今度、桃を届けに行くわね。……というより桃じゃなくて蘭が気になって来たんでしょう?」
星はひらひらと振った片手を口元へ持ってきてニヤリと笑う。
図星を射された一哉は狼狽えた。
「えっ、いや……」
「一哉君がうちに来る理由が蘭一択なのはお見通しよ。蘭はオーケストラの練習に行ったわ」
ハキハキとした星の口調には一切の訛りがない。
蘭の訛りは父親の影響でもあるが、環境によるものなのは明らかだ。
星は横浜の出身と蘭の口から聞いているが、野暮ったさの欠片もない垢抜けた容姿を見れば納得だ。
バッサリと顎のラインで揃えた真っ黒いショートボブは戦前のモダンガールさながらのレトロな佇まい。
毛先をすいて明るく染めた流行りの髪型とは正反対のものにもかかわらず、洗練された趣があった。
かつて駅前の百貨店のデパートガールを勤めていただけある、優れた容姿に溌剌とした受け答え。
蘭と似ているが星は冷静さよりも勝ち気さが勝る。
我が子のためならば鬼にでもなる覚悟は絵に描いた女傑の星らしい。
「まあ……そのとおりなんすよ。お嬢さん、元気にしてるかな~って来ました」
からからと声を立てて星は笑い出した。
「やーねえ。お嬢さんだなんて大事にされてるようで嬉しいけど、こそばゆいわよ」
そして「蘭でいいわよ」と笑顔で返す。
「いいわね~。蘭も一哉君みたいなかっこいい子と仲良くなれて。蘭ね、夏休み前に部活辞めてオーケストラ一本に絞ったんだけど……」
「噂は聞いています」
星には見えた。
瞳の奥に揺らめく怒りの焔。
蘭を心から想う証し。
この少年ならば、間違いなく愛娘を任せられると確信できた。
「ねえ、気晴らしに蘭をデートに連れていってあげて? 今日だと急すぎるからね……明日はあいてる?」
はい、と答えると「よしきた!」と星は小さくガッツポーズを作る。
「蘭ね、明日は午前中だけオーケストラの練習だから午後から空けておくように伝えるわね。
ほら、これ。おつりは持ってていいから。バイト料」
バッグから何かを取り出すと、星は無理矢理一哉の手に握らせた。
その『何か』はというと、一万円札。
セピア色の福沢諭吉と目が合うなり一哉は慌てた。
「いやいやいやいや! 受け取れませんってば!」
気が動転し、一万円札を星に突き返す。
「バイト料だと思って受け取ってよ。一人あたり五千円。食費に交通費、雑費、これだけあれば充分でしょう。
蘭とデートに行ってきなさいよ。あ、くれぐれも山歩きはダメよ? 蘭は制服に革靴だからね」
星が耳打ちをするように言う。
「周りが何か言ってきても、蘭のことを信じてあげてね。一哉君は蘭の騎士様なんだから」
蘭の騎士様。
そう言われて舞い上がる一哉に星は切なそうな面持ちで続けた。
「蘭を好きでいてくれて、ありがとうね」
最初のコメントを投稿しよう!