8人が本棚に入れています
本棚に追加
◇◇◇
蘭の好きなカフェで昼食をとった後の二人だが、結局のところ午後から"どこか"へ行くにしても物足りなくなってしまう。
話し合った末に、丸一日予定の空いている日に改めて"どこか"へ出だすことにした。
まだ夕暮れに程遠い。
別れ難い二人は無人駅を降り、自宅とは正反対の川縁へと歩を進める。
葉桜の木陰に沿って川縁を歩いているうちに、川寒橋の手前へと行き着いた。
渓流さながらの轟音を立てるこの川も、今日は流れが穏やかだ。
「わぁ、綺麗! 空の色に染まってるね」
水面が夏空の青を映す様に感嘆する蘭が愛おしい。
よく晴れた日が続くと、松川を流れる水は川底の小石が見えるほどに透き通る。
川岸まで降りられなくはない。
「あーっ、頭からローストされっちまうような暑さだナイ!」
何それと蘭は笑う。
一哉は時折妙な言い回しをする少年だが、一緒にいる誰かを笑わせたり楽しませたいがゆえのものだ。
焼けてしまいそうなほどに暑い夏。
二人の気持ちは同じで川岸で涼をとることにした。
「川さ足突っ込んだら涼しいかな」
一哉は靴下を脱いでスラックスの裾を膝下まで捲った。
そして静かな流れに足を入れる。
この街に来たばかりの頃は棒のように華奢だった脚も、14歳の今では筋肉がついている。
静観していた蘭だが「私も入ってみる」と言って立ち上がったので、嫌でなければと一哉は蘭に向けて手を差し出す。
足を滑らせて転倒などさせるわけにはいかない。
そう自らに言い聞かせるが、心臓は正直だ。
スマートに振る舞いたいのに、脈打つ心臓は彼を嘲笑う。
足の先。
手指の先。
体の末端に差し掛かる血管までがドクンドクンと脈打つおかげで、蘭に手を差し出す動作はぎこちないものとなった。
面食らった顔の後、蘭はおずおずと手を重ねようとするも手を止めた。
「本当にいいの?」
俯いたまま問いかける蘭の指先が震える。
水面の美しさに歓声を上げた無邪気な蘭は、そこにはいない。
何かに怯えて踏み込めない蘭がいる。
二年生に進級した頃から蘭は変わった。
常に何かを疑い、何かを恨み、怒りを抱き、怯えている。
和やかに会話を交わす時も瞳の奥底から垣間見えるは、怒りの焔か悲しみの暗闇か。
梅雨入り前、神楽殿の下で泣き崩れる蘭を見て一哉は我が胸に誓う。
何があっても蘭から離れない、と。
蘭。
大好きな女の子の名前を呼ぶ。
膝に手をついて少しだけ屈み、一哉は蘭の顔を覗く。
瞳に宿る星空が揺らいで見えるは、光彩を覆う涙のせいか。
「俺、蘭が足滑らして怪我する方がやだよー?」
分かりやすいほどに頬を赤らめる蘭が愛らしかった。
「ありがとう」
はにかみとも微笑みともつかない笑顔を返す蘭に、一哉は再び手を差し出す。
蘭のほっそりとした手が重なる。
桜貝と見まごう、薄紅の爪。
誰よりも愛しい少女は、指の先まで美しい。
清流と変わらない水質でなければ、川の水に浸かるなど叶わない。
足首の深さしかないので、膝下丈のスカートを捲らなくても差し支えないのだ。
時折吹き込む夏の風にスカートとロングヘアがなびく。
日焼けを知らない肌が陽光でより白く輝き、この上なく眩しいので、一哉は蘭を水辺に咲く花の姿と重ね合わせる。
蘭の好む朱鷺草は、水辺に咲く蘭なのだ。
◇◇◇
「初夏だったら土湯をリクエストしてたんだけどなぁ」
コンクリートに背をもたれたまま、蘭の爪先が水面を蹴る。
「えー、なんで土湯?」
バスで40分はかかる山あいの温泉地だろ、と一哉は返す。
恥ずかしながら、土湯には片手で数える回数しか行ったことがない。
一哉は元々は新潟県の出身で福島へ来て5年も経っていないのだから、土湯まで足を運ぶ機会に恵まれないのも無理もなかった。
せいぜい、新潟への帰省時に高速道路を利用せず会津方面へ抜ける際に通過するぐらいだ。
「土湯にヒメサユリの群生地があるの。小さい百合で、いい香りがして好き。でも、ほとんど山歩きだからなあ」
制服じゃ無理だね、と蘭は笑った。
蘭は一哉と会う時はなぜか制服にこだわる。
指定の白いスニーカーから革靴に履き替えることも忘れずに。
「蘭は本当に花が好きだよなあ」
「名前自体が花の名前だしね」
「二回目に蘭と会えた時、蘭の花が一番好きって言ってたね」
――私、蘭っていうの――
無邪気な笑顔がそう名乗る。
――桜は好きだよ。でも、一番好きなのは蘭の花――
蝶々に似た華麗な花は女王様の如し風格を纏う少女に似合いすぎていたが、少女は艶やかな大輪の洋蘭よりも、春蘭や朱鷺草のようにひっそりと咲く清楚な蘭が好きだと語る。
初めて聞いた花の名前を、忘れないうちに図書館で調べたものだった。
いずれも今まで抱いていたラン科の花へのイメージを覆す、小さくて、気品の漂う可憐な花。
最初のコメントを投稿しよう!