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瞳に映るは
◇◇◇
梅雨時の、神楽殿の下で泣き崩れたその後。
蘭はアスファルトを突き破って咲く百合の花を見て「淑やかに見えて強靭だよね」と感嘆した。
「百合の花を敷き詰めた上で寝たら死ぬって聞いたことあるけど、本当なのかな」
あり得ないのではと一哉は返したが、蘭は花に埋もれて死ねるならば本望、と真剣な面持ちで振り返る。
背筋が凍る思いだった。
一哉を見ているはずなのに、蘭は遥か遠くを見るような眼差しをしていたのだから。
瞳に映るは地獄の業火か、極楽の花園か。
思えば、その頃から蘭を喪うかもしれない焦燥感にかられ、悪夢にうなされるようになった。
二年生に進級してから、蘭の様子がおかしいとは察していた。
会話の内容だ。
ある時は色の話となり、パリスグリーン、シェーレグリーン、フレークホワイト、バーミリオンといった聞き慣れない色名が蘭の口からポンポンと飛び出す。
絵にまつわる会話からか、あるいは医学生の学費が高額だという話から派生したと一哉は記憶している。
「綺麗な色だけど、これ全部毒なんだよ。美大生の学費が医療系の学部に続いて高くなるのも、これらの顔料の処理をするのに莫大な費用がかかるから。
バーミリオンは辰砂……要するに水銀だね。鳥居とか昔の朱肉とか、イタリアのポンペイ遺跡から見つかった『ディオニソスの秘儀の壁画』って綺麗な絵の背景に使われてる。
水には溶けないからプロが言うにはそれほど怖がることはないらしいけど燃やすと毒ガス出っから、やっぱり扱いが難しいし怖いね。
シェーレグリーンとパリスグリーンなんてヒ素からできてっかんね。あれも湿気でカビ生えると毒ガス出て寿命縮めっから。あれを花緑青っつう名前で草餅だか饅頭だかの着色料に使った事例があっから恐ろしいわ。
パリスグリーンの毒性が知られて以降はドブネズミの駆除とか殺虫剤にも使われたみたいだけど」
「おっ、辰砂は聞いたことあるけど、ヒ素から顔料なんて初耳だわ。シェーレって学者、なんでヒ素から色作る気になったんだろうな」
「ヒ素の毒性があまり知られてなかったからね。だから昔の人って短命だったのかな。でも、パリスグリーンで染めたドレス、綺麗でかわいいんだよ」
「そんな、ドブネズミ駆除するための薬剤で染めた物騒なドレス、着たいなんて絶対に言うなよ?」
「ドブネズミかぁ、それ知ったら興醒めだよね」
「俺はヒ素にまみれた物騒なドレスって時点で興醒めだよ」
このような会話を、13歳の中学生が繰り広げているのだ。
夾竹桃の毒は青酸カリより強い。
庭木でよく見かけるカルミアも実は猛毒がある。
山裾で見かけるレースフラワーと瓜二つの花は、実は毒芹だ。
ある時は、触れるだけで肺が壊れて死に至る除草剤の話や自殺の名所の話にもなった。
そして、死と結びつく話をした後になると決まって蘭が学校で嫌みを言われるなどされたという話を友人に聞かされるのだ。
その手合いのやり取りを二、三度交わした時に、一哉は気づいた。
死にたいという願望の、表れであることを。
◇◇◇
パリスグリーンのドレスを纏い、可憐に舞う蘭を追いかける夢を見たのは何度目か。
蘭!
そのドレスを着るな!
夢の中で一哉は、必ずそう叫んだ。
手を伸ばしても、蘭は蝶々が虫取り網を躱すように少年の腕からするりと逃げる。
追いかけても追いかけても、追いつけない。
夢の終わりには、マリオネットの糸が切れたかのように、蘭は突然倒れる。
駆け寄る前に、夢から覚める。
◇◇◇
生きてほしい。
離したくない。
蘭がいなければ、今の自分はいない。
才気煥発な蘭と釣り合う男になりたいばかりに知識を頭に叩き込み、中学受験では上位の成績で合格できた。
父方の実家に帰省した際、親族から言われた「中学生になってから、尚更に亡くなったお祖父さんに似てきた」という言葉が誇らしかった。
医師だった祖父は、憧れで目標だ。
祖父が病に倒れた後も、時間さえあれば見舞いに出向いた。
女系の一族で男の子が珍しい家系なだけに、祖父からは同性ゆえの気安さから何かと目をかけられ可愛がられた。
祖父ちゃんが死んだのだって未だに悲しいんだ。
話したかったよ。好きな女の子ができたって。
俺は、蘭まで失いたくはない。
少年を蝕むは燃え立つ怒りと憎しみ。
誰が、そうさせたのだ。
蘭が死を意識する言葉を口にした現実を、作り出したのは誰なのだ。
敵方の思い通りには絶対にさせない。
蘭の平穏と生命を、守りたい。
「百合はな、根っこを食うために存在するの」
一か八かのジョークは功を奏したらしく
「やだぁ、百合の花見る度に思い出しそう。一哉ちゃん、ユリネ食べたことある?」
と、笑い声を上げた。
「うん。ユリネは食ったことあるし旨いよ。茶碗蒸しに入ってたやつ。……淑やかに見えて強靭って、蘭を表してるみたいだね」
「え?」
「蘭は見た目も立ち振舞いも品があるからパッと見は温室育ちのお嬢さんっぽいけど、性根は雑草魂。俺は蘭のそういうとこ、かっこいいって思うよ」
でもよぉ……と凛々しい眉をひそめて一哉は言いにくそうに続ける。
「俺、不安になるんだ。弱さを見せない人と、強くあることを強いられて弱音を吐くことも泣くことも許されない人ほど、取り返しのつかないことに成り果てる」
「一哉ちゃんは、優しいよね。今日日、そんなことを考えられる人は珍しいよ」
「それね、亡くなった祖父ちゃんが言ってたの」
「あの、精神科医のお祖父様?」
懐かしい面影を脳裏に描き、一哉は頷く。
「亡くなる少し前に言ってたんだ。祖父ちゃんは他にも『患者さんのドス黒く染まった心をまっさらに戻すのが仕事』だってよく話してたよ」
「医師の鑑だね! お祖父様は、一哉ちゃんのような人が孫で誇らしいだろうね。なんでか知らないけど、私、一哉ちゃんと話しているとまっさらな気持ちになれるの」
一哉のキリッと締まった口元が微笑む。
頬が熱くなり朱に染まる。
「祖父ちゃんに生きていてほしかったよ。ガンで入院した頃には既に余命いくばくもなかったけど……死んでほしくなかったって泣いた人、いっぱいいたよ」
「私も、会ってみたかったな。でも……」
今度こそは、蘭の眼は一哉を見据えていた。
「お祖父さまが、今でも一哉ちゃんと共にいるのが私にはわかる。お祖父さまの遺伝子と心意気を受け継いでいるんだもの」
少女の瞳に映るは、しなやかな少年の姿。
祖父を知っている者は、口を揃えて祖父の若かりし姿と似ていると評した。
かつての祖父も自分と同じ姿形をとっていたのだろうか。
「蘭」
名前を呼ばれた蘭は「なあに?」と返す。
「俺は蘭にも死んでほしくない」
一迅の風。
「絶対に死んじゃダメだよ」
百合の花が揺れる。
一哉の言う通りだと頷くように揺れた。
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