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足枷
◇◇◇
「あ、夏水仙。明日には咲きそうだね」
音澤家の敷地を囲む格子から、ほっそりとした蕾が顔を出す。
「どんな花だっけか? 彼岸花の仲間って蘭が言ってたような覚えあるんだ」
蘭はそうだよと笑って返した。
「ピンクの花弁にうっすらと青がかって……幻想的な色合いなの。世間ではリコリスの名前が馴染み深いかな? 一日がかりのお出かけ、楽しみだね。夏水仙の騎士様」
「え、ちょっと、なんで俺が騎士様で夏水仙なの? 俺、5月生まれだから夏水仙が結び付かないんだけど?」
お出かけの時にネタばらしをするから、と言って蘭は門扉から手を振った。
「あ、でも一哉ちゃんは察しがいいから分かるんじゃないかな」
楽しげな笑顔だった。
◇◇◇
過去を消し去ることはできない。
消し去りたい記憶を塗り替えるように現れたのは、澄んだ眼の美しい少年。
真摯な眼、素直な心根。
戯れ言を口にしても決して嗤わない。
ただただ真摯に耳を傾ける。
全てが慕わしい。
夏水仙の花言葉が似合う、私の騎士様。
薄々とだが、一哉に好意を寄せられているのでは……と淡い期待を抱き始めたのはいつからだろう。
周りから相思相愛ではと冷やかされれば、自衛と照れ隠しによる反発をしながらも
「相思相愛の四文字が現実であればいいのに」
と蘭は舞い上がった。
中学校に進学したの頃の蘭ならば、一哉から恋人になって欲しいと乞い願われた暁には喜んで手を取っただろう。
心変わりを危惧するようになったのはいつからだろう。
心変わりなどよくある話だと頭の片隅になくもなかったが、他人の口からわざわざ言われれば、堪える。
二人の幸せな時間が永遠のものでありたい。
これが蘭の願いなのだ。
彼が、自分以外の女性に熱い眼差しを向ける未来を考えただけでも蘭は絶望に苛まれた。
所詮一時の幸せならば、いっそのこと短い少年時代の甘い記憶の欠片として存在しようとさえ考えるようになる。
男は、いとも簡単に手のひらを返す生き物と十つに満たない頃には知っていた。
たとえ嘘の噂を吹き込まれようと、ひとたび気に入らないと見なされれば恋心を寄せた相手でも悪意の刃を情け容赦なく向けるのだから。
一哉は違うと分かっている。
その程度の薄っぺらい輩とは違う。
それでも、彼が他の女性に恋心を寄せる未来だってあり得なくはない。
それならば、二人で築いた繋がりが終焉を迎えるその日まで一緒にいたい。
あのような過去さえなければ、既に思いを告げていた。
恐れも眼中になく、幸せな時間を心置きなく謳歌できた。
消えない過去は、足枷となる。
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