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白い汚点
扉が開いたままの美術室からは、異臭がした。覗き込むと、学校指定の紺色ジャージの男子が一人きり、立って、キャンバスに向かっていた。
集中を途切れさせては悪いかなと思ったけど、まだパレットに絵の具を出しているところだったので、いいかと思って、わたしは小さな声で言った。
「失礼します」
先輩が、こっちを見た。学校指定のジャージを着てなかったら、顧問の先生だって、まちがっちゃいそうな老け顔だった。それがムンクの『叫び』のように、口を大きく開けて、両目をこぼれ落ちそうなほど見開いて、わたしを見つめている。
口を閉じて、先輩はうつむいた。顔を上げる。少し笑ってるような、泣いているようにも見える顔だった。ピカソなら、泣き顔と笑い顔をひとつの顔にして描くだろう。
「1年生?」
「はい。美術部に入部したいんですが」
「部員なら体育館前で今、ライブドローイングしてるよ。部活紹介で言ったの、聞かなかった?」
「――美術部に入ると決めてるので」
と、わたしは言ったが、実は、体育館での部活紹介の最中、居眠りをしてしまって、美術部の紹介を見ていなかった。中学の時より1時間も早く起きて、満員電車で押しつぶされて、高校に辿り着いた時点で疲れ果てて、暗くて静かな体育館に座らせられたら、居眠りするに決まってる。
「そう。それはうれしいねえ。でも、ライブドローイング、見に行ってやってよ」
「はい」
と、わたしは答えたけど、先輩が描いている絵を見てみたいなと思った。
「あの…今、描いてる絵、見ていいですか?お邪魔じゃなければ。」
「どうぞ」
「はい。ありがとうございます。失礼します」
美術室に入り、先輩の後ろの方に行って、キャンバスを見た。
レベル高!
校舎に掛かってる垂れ幕の、絵画コンクールの大賞と銀賞の受賞者の、どちらかだろうか。――でも、絵画コンクールで見た絵と、感じがちがうな……入選しなくっても、こんなにレベルが高い先輩がいるなんて、凄!
先輩が、わたしを振り返った。
「イス、勝手に持って来て、座っちゃっていいよ」
「はい。ありがとうございます」
でも、座っちゃうと、キャンバスが見づらいな、と思って、わたしは立ったまま、見てた。
一本の枯れ木が、ひび割れた暗いクリーム色の壁の前に立っている。
さびしい絵だった。
「枯れ木に花を咲かせましょう、ってね」
言って、先輩は絵に筆を置いた。筆を離す。白の、汚点。
絵を台無しにした。そう思った。
好きな画家が、アンドリュー・ワイエスであるわたしは、ピカソや岡本太郎や棟方志功を真似ただけの「大胆な筆致」とかいうのが、全く好みではない。
わたしは瞬速で、この先輩と、この絵に対する興味を失った。
目の前で絵は、どんどん台無しにされていく。子どもが、ただ色を乗せるのが楽しくて画用紙をめちゃめちゃにするみたいだ。
白い汚点の上に、ピンク、と言ってしまうには淡い色が、まだらに重ねられてゆく。思いつきで色を置いているように見えた、でも、そうではないようにも見えた。先輩が筆を持ち替える。細い筆先で小さな黄色の放射状の線をあちこちに描き入れる。――それは花のおしべだと、わたしは、やっと気付いた。
これは桜の花だ。枯れ木じゃない。これは桜の木だったんだ。
桜の花びらはピンク色で表現されるけれど、花びらのひとつひとつはピンクと言えるほど強い色ではなく、むしろ白に近い。花びらが重なり合って、「桜色」になるのだ。
絵を台無しにしてると思った筆は、その色の重なりを精緻に描き出していた。
背景の壁の色までが語り出す。この壁が、こんなにひび割れた暗いクリーム色になるまでの長い年月、この桜は繰り返し繰り返し、春になれば花を咲かせ、散り、冬には枯れ木のようになって、また春になれば花を咲かせて来たんだ。
自分の目と口から、ぬるりと何かが伝って落ちる感覚に、わたしは我に返った。
絵を見つめて、瞬きを忘れて見開いた両瞳からは涙があふれて、開けた口からはよだれが垂れていた。手の甲でよだれを、手のひらで涙を、わたしは拭った。桜の絵を描き上げた先輩は、こっちを振り返ることもなく、恥ずかしい顔を見られなくて、よかった。
わたしは自分の絵が、物の輪郭をなぞって形を写し、空は青・雲は白・葉は緑、そんな決められた色を塗りつぶしてるだけの塗り絵でしかないことを、思い知らされた。
「この桜、中庭にあって、去年、スズメバチが木の幹の洞に巣、作っちゃってね、大騒ぎで業者を呼んで退治してもらったら、かなり空洞が広がってて、倒壊の危険があるってんで、生徒の安全のために、切り倒されちゃったんだ。切り倒される前に、必死ブッこいて描いたんだけど。この桜も春に咲いて新入生を迎えたかっただろうなあと思ったら、花を描き足したくなっちゃってね」
こんな先輩のいる美術部で、絵を描けるなんて、わたしは、すごいワクワクして、心臓が痛いくらいドキドキした。
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