10人が本棚に入れています
本棚に追加
色の名前
「昨日、見た色を塗りたいので」
次の日。先生に言って、わたしは家に残った。
「そっか」
先生は、それだけ言って、出て行った。今日は、キャンバスを持ってもいない。絵を描くふりするつもりもないのか~い。
昼間の同じ風景を見てしまえば、昨日、見た色の記憶が上書きされてしまう。というのもあるけど、一番は、トイレに、なかなか行けない状況で、パンツが生理で汚れてしまうのが嫌だった。
おばさんが、わたしたちの洗濯物を干してたので、わたしは手伝った。朝から、言うチャンスがなかったので、わたしは、やっと言った。
「ゴミ箱、ありがとうございました」
「え?――ああ。いいえ。あれで、だいじょうぶ?」
「はい。だいじょうぶです。ありがとうございます」
「いいえ。こちらこそ。ありがとうね。干すの、手伝ってくれて」
「いいえ。いろいろ、ありがとうございます」
洗濯物を干し終わると、トイレでナプキン替えて、古民家へ、キャンバスとイーゼルと絵の具セットを取りに行った。ほんと女って、損だよなあ。毎月、一定期間、行動が制限される。帰りの新幹線も、通路側に座んなきゃなあ。動いてる時より、座りっぱの方が、出た!って感覚がないから、汚す確率、高いんだよなあ。
茅葺き屋根の古民家を描いてる4人の後ろを、何気な~く通り過ぎる。もう色、塗り始めてる…
「洗濯物なんか干して、余裕だな、金江」
田山先輩に言われて、わたしはイラッとする。
「先輩たちの洗濯物、干してやったんですよっ。感謝して欲しいですねっ」
ぷんぷん、歩いて行って、やっぱり囲炉裏を描こうかな、という弱気を振り切って、キャンバスとイーゼルと絵の具セットを持って、わたしは女子部屋へ行く。古民家は、日が差し込まなくて薄暗いから、絵は描けない。扉を開けると、丸イスに座った白衣のOGさんが、きゅうりの段ボール箱をひっくり返して、油壷とか置いて、絵を描いてた。
「あ、すみません」
ノックもなく、ドアを開けたことを謝ると、OGさんが振り返った。逆に、絵を描いてた集中を途切れさせてしまったかもしれない。
「ここで描く?――どうぞ」
わたしが持ってるキャンバスとかに気付いて、OGさんが言ってくれる。
「すみません」
わたしは入って、少し離れたところへ行って、畳の上に絵の具セットを置いて、イーゼルを立てた。――わたしも、丸イス、欲しいな。朝ごはん食べた後、こっそり、鎮痛剤、飲んだから、お腹と腰のだる重さは、多少マシだけど、立ちっぱは、ツラい。
また、おばさんに迷惑かけちゃうの、嫌だなあ。と思いながらも、わたしは、イーゼルにキャンバスを横に置くと、そっと部屋を出た。おばさん、どこにいるかな?
おばさんを見付ける前に、廊下の端に、重ねて置かれた丸イスを見付けた。OGさんも借りてたから、借りて、いいよね?丸イスを2つ、重ねて持って、部屋に戻る。
何も描いていないキャンバスの前に、丸イスを1つ置いて、座る。もう1つの丸イスには、油壷を
「そんな所、置いて、畳に、こぼしちゃったら、大変だよ。こっち、置きなよ」
OGさんが言って、段ボール箱の上のスペースを空けてくれた。
「すみません」
わたしはイーゼルと丸イスを移動して、OGさんの隣に行くと、油壷を置かせてもらう。正確に言うと、油壷に使ってる100均の瓶だけどね。膝の上に、油絵具12色セットの箱を置いて、フタを開ける。
「色に名前を付けるな」
先生の声がよみがえる。
「俺も、人に言われたことだけどな」
帰り道、歩きながら先生は言った。
そうなんだよなあ。色に名前を付けるのは、人間の勝手な決めつけだ。
空の色に「青」。夕焼けの色に「赤」。葉の色に「緑」。肌の色に「肌色」。光の色に「黄色」とか「橙」とか「白」とか。桜の花びらの色に「ピンク」。木の色に「茶色」。――自分の目の前にある色に、そうやって名前を付けた瞬間、その色でしか見えなくなってしまう。その色でしか描けなくなってしまう。
わたしは、瓶にペインティングオイルを注ぎ、パレットに絵の具を出した。バーミリオンとホワイト。
先生に言われたことは理解してるけど、いきなりゴッホや、ゴーギャンや、ピカソみたいな色遣いができる天才じゃないんで。
水彩絵の具だったら。画用紙一面に、赤に黒をちょっと混ぜた色を塗って、水をつけた筆で、ぼかした。
油画にも、色をぼかす技法はある。色を塗り重ねる技法も。でも、どれも、ちがうような気がした。
わたしは、ペインティングナイフで、バーミリオンとホワイトを、ちょっとだけ混ぜて、筆でペインティングオイルを垂らした。ペインティングナイフで混ぜ合わせ、すくって、キャンバスに塗った。
――ダメだ。
混ざり合う途中の、バーミリオンとホワイトのマーブル模様は、いい感じだけど、あの空は、こんな粗いマチエールじゃない。
やり直し。わたしは、布にオイルを浸み込ませ、拭き取ろうとして、絵の具が、むにゅっと、つぶれる感触に、はっとして、布の下を見る。そうか。油絵の具は、キャンバスに「塗る」だけのものじゃない。わたしは、キャンバスから絵の具を拭き取った。
もう一度、絵の具をペインティングナイフですくって、キャンバスに載せた。うんうん。これだ。この感じ。
わたしは、バーミリオンとホワイトをペインティングナイフで、もうひと混ぜして、すくって、キャンバスに載せる。うんうん。めっちゃいい。ホワイトを足して、ペインティングオイルを垂らして、混ぜて、すくって、載せる。混ぜて、すくって、載せる。バーミリオンを足して、ペインティングオイルを垂らして、混ぜて、すくって、載せる。混ぜて、混ぜて、すくって、載せる。
「それ、おもしろいと思うけど…よくなくない?」
「え?」
いきなりOGさんに全否定されて、わたしは、かなり動揺する。
「すごい絵の具も消費するし、すごい時間もかかりすぎる」
「それは…文化祭に出す絵なので、夏休みにコツコツやります」
「あああああああ」
わたしが答えると、OGさんが叫んだ。
「もうダメだあああ」
OGさん、自分の膝の上に頭を叩きつける。どうしよう。
「受験絵画ばっか描いてて、決められた時間と画材で、描き上げることしか考えられなくなってるぅぅぅ」
昨日、先生が二浪さんに「絵を描くのを急ぐな」って言ったのを、わたしは思い出した。あれは、そういう意味もあったのかな?
やっぱ美大受験って、大変なんだなあ…。子どもの頃から、大人になったらなりたいものを『画家』と書いてて、美大に行かなきゃならないとは思ってるけど、
OGさんが顔を上げて、わたしを見た。
「でもね、絵の具と、時間のことは、置いといて。そこまで厚塗りすると、乾くまで時間がかかって、持って帰れなくなるから、帰ってから、描いた方がいいと思う」
「……ああああああああ~」
今度は、わたしが叫ぶ番だった。OGさんの言う通りだ。もう、今日、このキャンバスと、絵の具セット持って、帰ろうかな…生理も来てるし。
「あと、インパストなら、オイルより、チューブのメディウムの方が、使いやすいと思うよ。――こーゆーの。」
OGさんが、わたしのパレットに「チューブのメディウム」を出してくれる。
「使ってみて」
「ありがとうございます」
わたしは、チューブのメディウムを絵の具と混ぜて、すくって、キャンバスに載せる。
「ほんとだ。オイルより、描きいい~」
「あげよっか。半分以上、使っちゃってるけど」
「いえ」
わたしは断った。
「もらっても、今、ここで、描けないので。」
わたしとOGさんは、いっしょに笑い合った。
最初のコメントを投稿しよう!