10人が本棚に入れています
本棚に追加
図画と工作
2年生、3年生は、5月中旬に締め切りの美術展の絵を描いていた。
わたしは入部したばかりで、油絵を描くのも初めてのくせに、1ヵ月くらいあれば、描いて応募できるとすら、思ってた。
応募するどころの話じゃなかった。絵を描く前に、キャンバスから作らされるなんて思いもしなかった。
「キャンバス買うより、安いんだよ。木枠は、使い回しで、エコだろ?」
モップ掛けして、タオルで乾拭きした床に、画布のロールを広げながら、先生が言う。
老け顔の先輩だと思っていたのが、美術の先生だった。34歳なら、年相応の顔なのだろうか。――ひょろんと背は高く、やせた顔に、細目で、ボサボサ頭。
いつも学校指定の紺色ジャージを着ているのは、絵を描いていて汚れて、どうにもならなくなったら、校門前の学校指定の物なら何でも揃う青柳用品店で、すぐ買えるからという理由だそうだ。
先輩たちも、あちこち汚れた紺色ジャージを着ていて、
「かなり汚れるから、専用ジャージ、買った方がいいよ」
と言われた。わたしは、お母さんに話をして、青柳用品店で、もう1着、部活用にジャージを買った。
画布を定規で測って、線を引いて、切って、木枠に当て、張り器で引っ張りつつ、ガンタッカーで留める。
こんなことは図工で、やることだ。わたしは、図画は得意だけど、工作は、どちらかと言うと、苦手だった。
ティッシュの箱で、動物を作ったら、何の動物か謎なのは当たり前。四つ足がガタガタしてるから、合わせるために、あっちの足、こっちの足を、ちょきちょきしてたら、伏せ状態になった。粘土で、花瓶を作ったら、水を入れた瞬間、穴もヒビもないのに、ぼたぼた、垂れ落ちた。さんすうの時間に、先生に『線は、定規を使って書きなさい』って怒られたが、ちゃんと定規は使っていた。
画布に定規を当てて、線を引いた時、何となく斜めになってたのは、わかってた。木枠に当てた画布を、張り器で引っ張りながら、ガンタッカーで留めるなんて、同時に二つの作業なんて、できるわけないじゃないですか……
表面が、ぶよんぶよんで、布目が、どう見ても斜めになっているキャンバスが出来上がった。
「金江、ひょっとして、ぶきっちょ?」
先生に、おずおず、聞かれた。わたしは答えた。
「同時に、二つのことをできないだけです…」
「それを『ぶきっちょ』って、言うんだよ」
そばにいる1年生4人にも笑われて、少し離れた所で絵を描いてる先輩たちにも笑われて、わたしはポンコツキャラ認定された。
「仕方ねえなあ」
先生が、画布を木枠に張り直してくれた。あれだけ手が大きくて、力が強ければ、上手にキャンバスを張れるに決まってるよな、と心の中で思いながら、わたしは、お礼を言った。
「ありがとうございます…」
「どういたしまして」
キャンバス作りは、まだまだ続く。ジェッソをローラーで塗って、乾くまで3日間、待つ。
乾くのを待ってる間、美術室にある油絵の具と、筆と、ペインティングナイフで、描き方、使い方を習う。初めて美術室に来た時、嗅いだ「異臭」は、ペインティングオイルのにおいだった。
「張ってあるキャンバスがあるなら、これに描かせてくれれば、よくないですか?」と言えずに、わたしは心の中で思う。
「とりあえず画材は、美術室にあるの、使ってみて、自分に必要な物を買う方がいいよ」
「夏合宿前に、みんなで買い出しに行くから、そん時に、揃えるといいよ」
先生が言うと、絵を描いてる先輩が言う。
鳥居くんだけは、中学の美術部で、油絵を描いてて、自分の絵の具セットを使っている。
わたしも中学の時、美術の先生に、油絵を描きたいって言ったんだけど、水彩のタッチが荒れるから、やめた方がいいと言われて、描かせてもらえなかった。
3日後、ジェッソが乾いたら、やすりをかけて、表面をつるつるにする。
やっと絵が描ける。
「まずは、これ、描いてみ」
1年生が与えられたモチーフは、机の上に置いた水を入れた透明の瓶だった。
なかなか難しいモチーフだ。瓶のカーブ。瓶と水の、透明の描き分け。瓶と水を通して、机の上に落ちる光。机のつるつるした木目模様。
瓶の置かれた机の周りにイスを置き、イーゼルにキャンバスを立て掛けて、描き始める。
初めて油絵を描く3人に、先生は何の指導もせず、いっしょに絵を描いているだけだった。
実力を見るつもりなのかな?
長く芯を削り出したえんぴつで下書きする。フィキサチーフを吹き付けて、下描きを定着させる時に、わたしは先生の下描きを見た。
デッサンじゃなく、ただ瓶の形を適当に書いて、机も四角で、いわゆる「当たり」を描いただけだった。
他の子の下描きも見る。わたしと同じ、ちゃんとデッサンしてる子もいるし、スケッチしてる子もいるけど、先生みたいに当たりだけを描いてる子は、いなかった。
「金江さん、上手いね」
わたしと同じデッサンで描いた小谷さんに言われる。
「そんなことないよ」
と、わたしは言うことにしている。
小1の時、写生会の絵で、賞を取って、朝礼で校長先生から賞状をもらって、いい気になってたら、クラスの女子全員から、わたしが話しかければ、答えてくれるけど、それ以上、おしゃべりしてくれない。という高度な無視技術で、いじめられてるような気がする一時期があったので、絵が上手いことは自慢しない。
「下塗りは、しても、しなくても、いいんだけど、基礎だから、今回は、しようか」
先生がそう言って、フィキサチーフが乾くと、わたしたちは、キャンバス全体を下塗りする。
色を塗るまでも、時間がかかる。パレットに、白と、少し黒を混ぜた灰色に、青を少しずつ足して、ペインティングオイルを入れて、ペインティングナイフで、混ぜる。
色を筆に付けて、キャンバスの下隅を、ちょっと塗ってみる。うん。この色だ。
下塗りしたら、乾くまで1週間、待つ。――やっと絵が描けると思ったのに、下描きを描いて、下塗りしただけで、また1週間後ですか・・・・・・・
「油絵は乾くまで時間がかかるから、締め切りのギリ1週間前には、描き上げなくちゃ、いかんわけよ」
先輩が言う。美術展に応募する絵を美術室の一番後ろに放置して、先輩たちが1年生たちに、ちょっかい出してたのは、そーゆーことですか。締め切りまで1ヵ月あれば、応募できるなんて思っていたのは、大きなまちがいだった。
「油分を拭き取れば、今日から、色を塗れますよね?」
油画経験者・鳥居くんが言う。
「できるけどね。今回は、基礎だから。まあまあ、あせらず。」
ひらひら、手を振って、のんびり、先生が言う。
待ってる間、また美術室にある油絵の具と筆とペインティングナイフで、描き方、使い方を習う。先輩からも、いろいろ教わる。
1週間後、やっと本当に絵を描き始める。これまでに、いろいろ習ったから、思った通りの色、思った通りに筆が進められる。塗り絵にならないように、って思うけど、きっちり塗らずにはいられないなあ…わざと、筆を荒く使っても、雑にしか見えない。はみ出たところを、わたしはオイルを浸み込ませた布で拭き取る。先生を、ちらっと見る。
やっぱり先生は何の指導もせず、絵を描いてるだけだ。わたしが座っているイスから、先生のキャンバスは見えない。隣に座ればよかったなと、後悔する。
描きかけで先生は、先輩たちといっしょに、美術展に応募する絵を梱包して、搬入に行ってしまった。
鳥居くんが、先生の描きかけの絵を眺めている。
見たいけど、今、先生の絵を見たら、自分の絵が迷っちゃうな…と思って、わたしは見ない。
「もっとガチガチの指導、するかと思ってました」
「あはは。賞狙いで、我が美術部に入ったのかね?君。」
鳥居くんの独り言のようなつぶやきに、搬入に行かなかった先輩が笑って聞き返した。
「賞狙い」というわけじゃないが、この高校を選んだのは、美術系でもない、公立普通高なのに、あちこちの絵画コンクールで賞を取っているからだった。
「いっしょに楽しく絵を描いてるだけだよ、先生は。」
「なのに、どうして賞が取れるんですか?」
「それは、俺の才能だね」
先輩が胸を張った。――鳥居くんは、あきれ顔で、イスに座り、続きを描き始めた。
2週間かけて1年生が描き上げた絵を並べて、先輩たちのアドバイスを受ける。他の1年生は、いろいろアドバイスを言われてたけど、わたしの絵は。
「ほんとに油画、描くの初めて?」
「上手ぁ~」
わたしの耳に、笑い声が聞こえた。
反射的に振り返ると、目元に笑いジワ、シワシワの先生と目が合った。先生は笑ったことを隠そうともせず、私に向かって、にっこり、笑う。
小学1年生の写生会で消防車を描いた時から、賞を取り続けていたわたしは、絵を見て、笑われるなんて、生まれて初めてだった。
「油絵、描くの、楽しい?」
そんなことを聞かれるのも、生まれて初めてだった。――……絵を描くことを「楽しい」なんて思ったこと、ない。
絵は、描かなくちゃいけないものだった。写生会。図工の授業。美術の授業。美術部。
「描くのに、本当に時間がかかりますね」
「楽しいと思ったことはない」なんて答えられなくて、わたしは質問の答えになってない答えを言った。先生の方を見てはいたけど、目を見れなかった。
「そうか…そうだね……」
わたしは目を逸らすように、先生の絵を見た。
茶色い絵だった。下塗りは、赤茶。机の薄茶、薄青の瓶。瓶を、水を通して、机の上に落ちた光は、白を細く塗り重ねている。画面全体が茶色いから、真っ白な光の輪に、目が吸い寄せられる。
わたしの青い絵は、べったりと平面に見えた。
最初のコメントを投稿しよう!