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青い影
やせた男は、古びた毛布にくるまり、狭いベッドに横たわっていた。まだ外は明るいのに、日当たりの悪い部屋は薄暗く、顔色は青黒く見えるほどだった。
「芽唯ちゃん、ちがうちがう、そうじゃな~い」
わたしがデッサンを描いてるスケッチブックを後ろから覗き込み、瀧澤部長が歌った。瀧澤部長を振り返ったわたしの目の前に、スケッチブックが押し付けられた。えんぴつと、紙の匂い。
「近いです、部長」
「ごめんごめん」
目の前から離されたスケッチブックには、俯瞰で描かれたベッドに、逆三角形の顔、横線の目、眉毛は、ハの字、三角の鼻、口は横線、髪はボサボサ、体は棒の男が横たわっていた。私は爆笑した。
「似てる」
「先生を描くのは、これで充分。」
私は背伸びして瀧澤部長の隣、体育座りしてる足にスケッチブックを立て掛けてる堂前先輩のスケッチブックを覗き込んだ。
逆三角形の顔、目は〇で、眉毛は、ハの字、三角の鼻、口は横線、頭はボサボサ、体は棒で、額に三角のアレが描かれてる。死んでるやないか~い。
この二人、絵画コンクールの銀賞と大賞受賞者なのに、才能を、ものすんごいムダ使いしていらっしゃる。
マジメに、病める先生をデッサンしてるのは、ベッドの横、前列に体育座りしてる足にスケッチブックを立て掛けてる1年生4人だけだった。
「もう帰ってくれよおおおお」
先生が、冷えピタ貼ったおでこまで、毛布を引き上げる。
「ひでえな。俺らが看病に来なかったら、干乾びて、孤独死だぜ」
堂前先輩が言い返す。
「感謝してる。感謝してるから、もう帰ってくれええええ」
「これ、毎年なんだよ。5月って、急に暑くなるでしょ。窓、開けたまんま寝て、風邪ひくんだわ。来年も、面倒、見てやってね」
瀧澤部長にお願いされた。
部長と3年生代表・堂前先輩と2年生代表・庄野先輩に、1年生4人は連れられて、駅前のドラッグストアで、薬や冷えピタや栄養ドリンクを買って、スーパーマーケットで、おかゆのレトルトや水やスポーツドリンクや野菜ジュースやアイスを買って、風邪をひいた先生のアパートに押しかけてる。
通学路の途中にある、校舎の影で日当たりの悪いアパートに、先生は住んでいた。職員室まで走って5分のアパートは、新任の先生の寮みたいになってて、普通は、お給料が上がったり、転任したり、退職してしまったりして、引っ越すのに、先生は住みついてしまっているそうだ。
代々、部長に引き継がれている合鍵で開けて入ったワンルームは、寝るためだけの部屋という感じだ。キッチンの前には、ゴミ袋の中に理路整然とコンビニ弁当の空箱が積み重ねられている。冷蔵庫は小さくて、買って来た物を入れる時に見た中身は、牛乳と水だけだった。わたしたちが座るためにどかしたテーブルには、シリアルの袋。テレビとレコーダーのリモコン。
ゴミ袋をどかして、瀧澤先輩が鍋に沸かしたお湯で、あたためたレトルトおかゆを、ベッドで先生は食べて、薬を飲んで、歯を磨いた後、寝た。
「今日の課題は、男性デッサンです」
そして、瀧澤部長が言い出して、先生を描き始めた。だから、お見舞い行くのに、スケッチブック持参だったんですね。
「やっと見付けた~」
デッサンもせずに、勝手に収納を開けて、頭を突っ込んでた庄野先輩の、くぐもった声がして、わたしは振り返った。収納から頭を出し、こっちを向いた庄野先輩は、スケッチブックを持っていた。
「やめてくれ、庄野」
向き直ると、先生が毛布をはね上げ、飛び起きて、ぐらっと倒れかけた。背中で壁にもたれて、ずるずる、斜めになる。
「ほんと熱、上がるから、やめて。庄野。いきなり、そんなの見せたら、セクハラだぞ」
「芸術鑑賞ですよ~」
振り返って見ると、2年代表・庄野先輩は、縦にスケッチブックを広げた。
パステル画だった。
「先生、パステル画なんて描くんですね」
わたしは言いながら、何重にも重ねられた曲線を、目で辿る。塗り重ねて色の濃淡を出してるんじゃなく、曲線を重ねて重ねて、濃淡を出している。淡い橙色の数えきれない曲線の上に、重ねられる青い曲線。
「ガン見しちゃって、芽唯ちゃんのえっち~」
「え?」
スケッチブックを胸の前に開いた庄野先輩は、にやにや笑ってる。わたしは、描かれたパステル画の全体を、見た。
スケッチブックを縦に見開きで描かれていたのは、首のないトルソーだった。右脇腹に傷が付いてたんだろうか。その傷まで、精緻に描き込まれてる。
美術室にある石膏像って、デッサンで、よく描かされるけど、えんぴつの黒じゃなく、いわゆる「肌色」で描くと、こんなに生々しくなるんだ。考えてみれば、筋骨隆々のマッチョだもんな。――でも、石膏像に乳首なんて、あったっけ?――影を、黒じゃなく青で描くのも、おもしろいな。
わたしは、自分の家の玄関にあるパステル画を、思い出す。タッチは全然、ちがう。でも、
スケッチブックがめくられる。肌色と青い影で、腕から手が、いろいろ、描かれたパステル画。スケッチブックがめくられる。肌色と青い影で、手だけが、いろいろ、描かれたパステル画。先生の手だ。
「もう、やめとけ」
堂前先輩が立ち上がり、スケッチブックの前に立った。
「わたし、見たいです」
「えっちだね~、芽唯ちゃん」
わたしが言うと、庄野先輩が、にやにや笑う。絵画の裸婦を、エッチな目で見るタイプだなと思って、わたしは嫌悪感で、ざわっとする。堂前先輩は立ち上がり、庄野先輩からスケッチブックを取り上げて、閉じた。
「すまん、堂前」
「いいえ」
堂前先輩はスケッチブックを、先生に渡した。先生はスケッチブックを胸に抱える――とても大切な物を抱き締めるみたいに。
「わたしも、いきなり見せられて、衝撃だったからなあ…」
瀧澤部長は苦笑いする。
「金江さん。見たかったら、先生の許可を得て。」
堂前先輩に言われて、わたしが言おうとすると、先生は、スケッチブックを胸に抱えたまま、もぞもぞ、毛布にくるまってしまう。
「先生、」
「昔、描いたセルフヌードだよ。他人に見せられるものじゃない」
そう言って先生は、頭まで毛布にもぐりこんだ。
セルフヌード。――ということは、あのトルソーは
私の顔は、勝手に燃え上がるように熱くなった。
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