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家に帰って、わたしは、玄関の横の靴箱の上の壁に飾られている、小さなパステル画を見た。
玄関の横に飾られてるので、いつもはスルーして目にも入らない。前に住んでた家でも、玄関の壁に飾られてて、白いアクリルの額が、古びて少し黒ずむほど、あるのが当たり前で、今まで、じっと見たこともなかった。
縦に描かれた、青々とした山の絵。緑を「青」と言う意味での青じゃなく、本当に葉の色を、青で描いている。
青で描いているというのは、正確ではなくて、青のパステルをぼかして、ところどころ、消しゴムで消して、山の木々を表現している。
先生のパステル画は、線で表現していたけど、このパステル画は、色で表現している。
技法って、いろいろ、あるんだな。色使いも。葉は、緑。影は、黒。そんな決めつけにとらわれないで、自分が感じた色を、そのまま表現している。
わたしは座り込んで、重い革靴を脱ぐ。
パステル画を描いたのは、わたしの叔父さんだ。お母さんの弟さん。病気で、高3で亡くなったそうだ。叔父さんも絵が上手で、わたしが絵が上手なのは、叔父さんに似た、らしい。――才能が遺伝するかどうかは、科学的に議論のあるところだが。
立ち上がり、階段を上る。自分の部屋に入り、電気を点けないまま、バッグを置くと、ベッドの掛け布団の上に、制服のまんま、ぼふっと倒れ込む。そして、お母さんに「ごはんだよ」と起こされるまで、寝るのが、最近のわたしの人生の楽しみである。
お母さんには、「臭いのが、お布団に付くから、制服は脱ぎなさい」と言われるが、ペインティングオイルの臭いは、制服に付いてるんじゃなく、体に付いてるので、ほんとはお風呂に入ってから寝た方がいいのは、わかってるけど、もう起き上がることはできない……
目を閉じた暗闇の中、先生のパステル画を思い出す。
――先生のアパートを出ると、鳥居くんが半笑いで言った。
「セルフヌードって、筋肉、盛りすぎじゃないですか。さぞかし、大きな一物をお描きなんでしょうね」
鳥居くんは毒舌キャラらしい。無口なんだけど、口を開くと、毒を吐く。
「いや、そうでもなかったよ」
答えたのは、瀧澤部長だった。人差し指と親指の間を広げたり狭くしたりして、大きさを見せなくていいですからっ!と、わたしが心の中で思っていると、指を丸めて、太さまで見せてくれた。
「やめろよ」
堂前先輩が瀧澤部長の手を掴んで下ろさせる。瀧澤部長は、堂前先輩の指に指を絡ませるように、手をつないだ。
「やめろよ」
堂前先輩が振り払った。…そうじゃないかと思ってたけど、この二人、やっぱ付き合ってるんだ……
「今の貧相な体からは想像できねえけど、先生、高校まで、水泳やってたんだって」
庄野先輩が言う。わたしは思わず聞き返した。
「なのに、美術の先生?」
「盲腸で死にかけて、水泳、辞めたらしい」
「マジで?」
庄野先輩の言うことは、いっつもウソくさい。
そんなことを思いながら寝たせいで、ベッドに寝ている先生を夢に見た。掛けているのは、古びた毛布じゃない。白い掛け布団。
先生が目を開けた。
「どこ?ここ……」
「病院だよ」
男の人の声が答えた。――誰?
「……誰?」
先生がこっちを向いて聞く。答えようとした時、
「ごはんだよ」
お母さんの声がして、揺り起こされた。
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