ひとつの望み

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ひとつの望み

 努力はすべてムダだった? 生まれてきた意味はなかった? 私にだって、誰かを笑顔にできるかもしれないと思ったのに。人生のどこかで、なにかの選択を間違ったのだろうか。  そのとき脳裏に、これまでの出来事がスライドショーのように映し出された。  中学生のときに料理を大失敗した。一人暮らしの部屋から眺めた夜景。小学校の運動会で玉入れした。傘をさして高校に向かう雪の日。バイト先のカフェでモップ掛けした。就職の面接で足がもつれそうになった。  いろんな出会いと別れ。私にとって大きな存在であるお母さん、二人のお父さん、そして荻窪さん……。ごめんなさい。もっと一緒にいて、いろんなことをしてあげればよかった。やり直せるなら、一日一日を心から大切にするのに。  命の火がやせ細っていく。救急車が来たところでダメかもしれない。そのあと空に昇っても、実の父には会えない気がした。  ほんとうの一人ぼっちになるんだ……。  怖い。底のない穴へ落ちていく。凍えた世界に閉じ込められる。夢を見ることすら許されない、永遠の孤独。  もうなにも感じたくない。淋しい空間が待っているだけなら。  心残りはたくさんある。でも、どうしようもない。最期の門をくぐる瞬間を待つことしかできない。  思考を手放そうとしたが、相反して感情が叫ぶ。  ひとりにしないで……!  声なき声が虚空に消える。意識が沈んでいく。闇が訪れる。そこにはなにも存在しないはずなのに――。  誰かの声が聞こえる。必死に名前を呼んでいる。こんな状態の私に、なぜ聞こえるのだろう。懸命につなぎとめようとしているからだ。その声が世界に響き渡った。 「――秋穂っ、秋穂!」  なにも見えないはずの目に、人影がぼんやり映って、ピントを合わせるように明瞭になっていく。こちらを見下ろす相手が、端正な目元を歪めて涙をにじませた。白い肌、黒い着物。忘れた存在。なのに、私の口はその名をつぶやいた。 「柊矢くん……」  彼が唇を噛みしめ、右目から雫を落とし、こちらの左頬で散る。そして、ひどく悔しそうにつぶやいた。 「なんでお前がこんな目に……。ちくしょう、俺に奇跡を起こす力があれば、なかったことにしてやるのに!」  私は相手の言葉にほっとした。 「あなたでも……命をどうこうすることはできないんだね。よかった」 「なにがいいんだ?」 「そんな力があったら、いまより苦しむはずだから」  戸惑う彼に、私は尋ねた。 「どうして柊矢くんのことを思い出せたんだろう」 「見ただろ、走馬燈を」 「ああ……」  過去のさまざまなシーンに混じって、森で出会ったこと、小学生のころに遊んだこと、高校生のころに見かけたこと、家族の変化にふさいだ夜のことがよみがえった。記憶は消えたのではなく、私の中で眠っていただけだ。 「また、あなたを呼んだ?」  柊矢くんは黙ったまま目を細めた。 「ごめんね、最期まで」 「最期なんて言うな」 「でも、どうしようもないよ」  彼が静かに泣いている。自分の状態は分からないけれど、危険な状況だと感じた。これまでいた世界とのつながりが薄れていく。諦めたくない。だが、藁をつかむことさえできない。  柊矢くんがかぶりを振った。 「幸せになるんだろ。不運が引きずり込もうとしても、負けるんじゃない。未来は、お前の心ひとつだ。しぶとくしがみつけ。そうすれば、お前が奇跡を起こす」 「私は……幸せになれる?」 「当たり前だろ。この世界に貸しをいっぱいつくったんだから、取り返すまで堂々と居座ってりゃいいんだ。我慢したぶん、誰のことも気にせず、思うままに生きろ。その手で世界を回してやれ」 「周りを気にせず……ほしいものを」  彼に励まされると、どんなことでも叶う気がした。行きたい場所へ行き、見たいもの聞きたいものに浸る。気持ちを口にすれば、世界は聞き届けてくれる。  望みはひとつ。 「幸せになりたい」  柊矢くんは懸命に笑みを浮かべ、うなずいた。 「つかみとれ」  すうっと意識が遠くなる。相手の姿は薄れていき、消える直前に柊矢くんが後押しした。 「生きろ、秋穂」  返事をすることは叶わず、世界は暗転した。  * * *  目を覚ますと、うっそうと生い茂る木々がこちらを見下ろした。あたりは暗いが、高い場所にある枝葉は太陽の光を浴び、緑の濃紺を生み出す。  体を起こし、自分が湖のほとりでうたた寝していたのだと気付く。青く澄んだ水面が、陽光をはね返してキラキラ輝く。その美しさに吸い込まれそうだ。初めて見たような、昔から知っているような、矛盾した感慨をいだく。  そのとき、後方で草むらをかき分ける音がした。私はゆっくり振り返る。木々のあいだに立っていたのは、端正な顔立ちで黒い着物をまとった男性だ。こちらに対し、驚いた様子で目を見張る。 「なんで泣いてるんだ?」  言われて初めて、頬が濡れていることに気付く。呼吸するように雫がこぼれたので、自分でも戸惑った。でも、どうして感情があふれたのかは知っている。 「幸せだから」  すると彼が、さまざまな思いをないまぜにした顔になった。 「ああ。お前がその手でつかんだ」  私はうなずいてから、つぶやいた。 「長い夢を見てた」 「どんな?」 「近くて遠いあなたを、ずっと呼んでいる夢」 「なら、お前を呼ぶ声も耳にしただろう?」  同じぐらい求めていた。そばにいなければ、なお強く、えにしを深めた。  たとえ、誰にも許されなくても――。  私が立ち上がって歩み寄ると、彼が抱きしめてくれた。かつてはひんやりした白い肌が、いまはあたたかい。大きな手がこちらの髪を梳く。私がしがみつくと、耳元で相手の笑う気配がした。 「体を冷やすなよ。大事な時期なんだから」 「うん。でもこの子、森のざわめきが好きみたい」 「生まれたあとが思いやられる」 「私とあなたの血が流れてるから、諦めたほうがいいかも」  わずかに体を離した彼が、まだ目立たない私のお腹を眺めた。そちらに向かって語りかける。 「自分の目でこの世界を見たいだろう? お前も母さんを守ってくれ」  私の体内にあるもうひとつのともしびは、小さいけれど、しっかりした光を放っている。私はふふっと笑って、彼に教えた。 「あなたは私の声を聞き逃さない、って」 「こいつもいつか、そんな相手と巡り合う」  彼が私の手を取って、戻りの道へいざなった。 「帰ろう、秋穂」 「迎えにきてくれてありがとう、柊矢さん」  二十五も年上の夫だが、私が物心ついたころと見た目は変わらない。一人前になったあとは、その姿を保つ。年齢とともに育ってきた私も、そろそろ止まるはずだ。そういう種族だから。  私には生まれる前の記憶があった。だが、いまではおぼろげだ。そのころの自分がどんなふうに生きたのか思い出せない。ただ、ひとつだけ――。  彼がためらいがちに「柊矢」と答えたこと。  私が嬉しくて「秋穂」と名乗ったこと。  あれが、すべての始まりだった。
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